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Mar 12, 2006
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 暮らしの中の小さな幸せを感じるためには、穏やかな心でいればいいのです。
それが無条件の愛です。

 そのためには、抵抗することを止めればいいのです。
そうは言っても抽象的で分かったような分からないような状態だと思います。

 具体的に説明すると簡単です。

 10日のブログ「責める気持ち」を例に説明しましょう。


 電話を取った長女に対し
『そういう場合は、用件を聞くべきだった』
と私が思えば、私はそうしなかった長女を責める気持ちがわいてきて、
『ダメな奴だ』と思うことでしょう。

 それは、
『用件を聞くべきだった』という私の考え、
そして、それに対する囚われ(「べき」と思っているから)が
あるからです。

この『そういう場合は、用件を聞くべきだ』というのは、
私の中の正しさ(の基準)であって、
「べき」というように絶対視しているので、
他人にも押し付けずにはいられないのです。

 そして、その基準からはずれているものに出会うと
条件反射的に否定的感情がわいてしまうことになります。

これが責める気持ちが生じるメカニズムです。

 これはコンピュータのプログラムのように融通が利きません。
『そういう場合は、用件を聞くべきだ』
という考えがある限り、
聞かなかった状況に出会うと否定的な感情が自然にわいてしまいます。

 ですから、
それを止める方法は、二つあって
1.『そういう場合は、用件を聞くべきだ』という考えをやめること
2.全員に『そういう場合は、用件を聞くこと』を徹底させる。
つまり、他人を自分の思う正しさに従わせる、ということになります。

 後者の場合、
『そういう場合は、用件を聞くべきだ』
というようななんとなくみんなが納得するものは、
争いになりにくいですが、
A宗教とB宗教をどちらを信じるべきか、
のように客観的に判断が下しづらいものは、
争いになりやすいのです。


 さて、
なんとなくみんなが納得するものというあいまいな言い方をしましたが、
なぜ、今回のような場合、
なんとなくみんなが納得するのかが
明確に分かる人は、
もうこのブログを読む必要はありません。

 その方はもう分かっている方です。

 そうでない人のために説明すると

まず、正しさというものは、ある目的に適うことを指します。

 『そういう場合は、用件を聞くべきだ』
という考えには、目的があります。

 今回のようなトラブルを無くす、減らすということです。

 そして、その目的(前提)を暗黙のうちに了承しているから
なんとなくみんなが納得することになるんです。


 逆に、
原発推進派と原発反対派はいくら議論を重ねても
歩み寄ることができないのは、
前提となっている目的が違うからです。

原発推進派は、たとえば、
電化によって人々の暮らしが楽になり、便利になることを第一目的にしていたりします。

一方、原発反対派は、安全な生活を第一目的としています。

ですから、それぞれ正しさ(目的に適うこと)が違うのですから、
目的を変えない限り、歩み寄ることはできないのです。

 そして、許しというのは、
そのような目的の違い、考え方の違いがあることをしっかりと認識し、
それぞれの人の自由意志を尊重する姿勢を持つ、という愛の元に、
ぞそれの人の違ったその考えを目的とするなら、
それぞれの人は正しいことをしている、
と正しく認識することで、
そこに罪を認めないことなのです。

 最初から罪を認めていないのですから、
最初から許しているわけです。

 それが無条件の愛の状態です。


 そのことは、
前に4回に分けてご紹介したブログ
イエス、5000人にパンを分ける」の中でも、
パンを隠し持っていて
「主よ、私はパンを懐に隠し持っていました。
誰にも知られないように一人で食べようと思っていました。
私の罪をお許し下さい。
この、・・・このパンを皆の人に分け与えて下さい!」
と許しを乞う男に対し、
イエスが
「私が許すのではない。あなたはすでに永遠の昔から許されている」
と言います。

 これは、イエスが、
最初から罪を絶対の罪を認めない意識の人であることを示しています。

 しかし、
ある前提の下では罪がある、ということも認識していますから、
罪を犯すことを咎め、正しい道に導くことができるのです。

 あらゆる選択の時に、責めるのをやめ、許すこと


 穏やかな心、無条件の愛はそこにあります。

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最終更新日  Mar 12, 2006 04:29:01 PM
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