「青い目の人形」日本に到着 18日の日記
クロニクル 「青い目の人形」日本に到着1927(昭和2)年3月18日 >あーおい目をしたお人形は アメリカ生まれのセールロイド…< 子供の頃に覚えた童謡の1つです。野口雨情のこの詩は、人形の日本到着の1年前の詩作ですが、贈られてきた人形とオーバーラップして、歌い継がれました。この「青い目の人形」は、米国人宣教師シドニー・ギューリック博士の呼びかけで、全米から集められたものでした。ギューリック師は、日露戦争後の日本の満州支配の進展で、次第に緊張を高めていた日米関係を憂慮して、民間の文化的交流を通じて、緊張を和らげようと、「日本のひな祭りに人形を贈ろう」と、全米に呼びかけたのです。この呼びかけに応えて、集まった人形は、全部で12,739体に達しました。その全てが、ひな祭りには間に合わなかったのですが、93年前の今日、横浜港に到着したのです。この人形は、全国の小学校などに1体づつ贈られ、子ども達の手で夫々に名前がつけられ、大事にケースに入れられて、昇降口や校長室や職員室前の廊下に飾られました。 米国に対する返礼として、渋沢栄一が中心となり、今度は「アメリカのクリスマスに、答礼の人形を贈ろう」と、全国の学校を通じて集められた58体の市松人形が、アメリカに贈られました。 時移りて、日米開戦後、敵国のものとなった「青い目の人形」は、軍国主義の狂気のなかで、その多くが焼却処分されました。しかし、1部の心ある人々が、貧しい日本の子ども達が大切にしていた人形を、焼却処分するのは忍びないと、密かに1部の人形を倉庫の奥などに隠したのです。こうして焼却を免れた人形324体が、現在も保存されていると聞き及びます。