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本庄氏の館

本庄氏の館

長岡 米百俵祭

時は幕末の越後長岡藩
1867年の10月、徳川幕府は大政奉還により、その長い歴史に幕を下ろした。その2ヵ月後、京都の朝廷は「王政復古の大号令」を発する。
いわゆる尊皇攘夷であるが、この尊皇攘夷の裏には西軍諸藩の謀略があるとして、徳川幕府復権を訴える者がいたそれが越後長岡12代藩主・牧野忠訓と、後の長岡藩軍事総督・河井継之助である。
しかしこの訴えも虚しく、幕府側は朝廷に叛く賊軍とされ、鳥羽・伏見の戦いへと向かっていく。
この戦いによって戊辰戦争の幕が切って落とされたのである。
新政府軍は鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府軍を破り、江戸城も無血開城させる。新政府軍は勢力を増し、反抗勢力を制圧しようと各地へ軍を進めた。
ほとんどが新政府軍に恭順する中、越後長岡藩は恭順派を退け中立体制を保った。
河井継之助は長岡藩の武装中立と新政府軍との和睦を望みとしていたのである。しかしこの武装中立が裏目に出た。
新政府軍は長岡藩を敵対視し、戦闘体制を整える時間稼ぎをしていると判断された。
新政府軍との会談で、河井継之助の夢、長岡藩の武装中立は認められなかった。
そしてこの会談が歴史上有名な「小千谷会談」である。
継之助は、この会談失敗の理由を藩士に告げ、徹底抗戦やむなしとする、事実上の戦闘開始を宣言した。
こうして長岡藩を始め、幕府側の同盟も含めた越後6藩と奥羽25藩を含めた
「奥羽越列藩同盟」が結成。
戊辰戦争から北越戊辰戦争へと名を変え、最大の激戦という運命を辿っていくのである
そして激戦の末に悲劇の終焉を迎えた・・・・
戦争により長岡の町は焼き尽くされ、
長岡は賊軍の烙印を押されて辛酸の時代を送った
また藩主の断絶こそ免れたものの、禄高は大幅に減らされ、人々は餓えに苦しんだ。
そしてこの長岡の苦境を見かねた三根山藩から救援米として苦しい藩政を省みずに米が「百俵」届けられたのである。
この救援米に長岡の人々は狂喜したが、しかしこの救援米を人々には分配せずに、米を売り、その資金で学校を作ろうと進言する者がいた、長岡藩の内政を勤める大参事、小林虎三郎である。
長岡の藩士達は米を分配して欲しいと小林虎三郎に詰め寄ったが、虎三郎は、たかが米百俵で長岡の人々が何日もつか?
そしてまた、二度と悲惨な歴史を繰り返さない為にもまずは人の教育が先である・町が栄えるのも衰えるのも全て人にある「今日の痛みに耐え、明日をよくしよう」と、藩士達を説いた。
これが世に言う「米百俵の精神」である。
長岡は現在、この米百俵の精神を受け継ぎ、長岡の先人達の精神を尊んでいる。
また秋の収穫を祝うという意味も込めて盛大に開催しているのが「米百俵まつり」である。

長岡時代絵巻アルバム

~行列登場人物~

<戦国時代~江戸時代>

虎千代(後の上杉謙信)・虎御前(虎千代母親)
小嶋弥太郎
堀 直寄
牧野 忠成

<北越戊辰戦争と長岡>

山本帯刀
川島億二郎
三間市之進
花輪求馬
<本陣隊>
牧野 忠訓
河井継之助
牧野 忠恭
姫君
牧野図書

<西軍>

山県狂介
岩村清一郎
黒田了介
西園寺公望

~長岡出身の偉人達~


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