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倫理の進化

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若樹

若樹

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2008.03.27
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カテゴリ:正統日記
一体、日本に於ける、生き者に対する国民性と言うものは、たった20年から30年位で、
劇的に変化が可能なのだろうか。





日本は農耕民族で、そもそも犬をパートナーにして、生活していた、狩猟民族のルーツ
を持つ、欧米人とは、犬に対する理解や姿勢、愛情に、温度差があると言う現実がある。





先に書いた通り、自分の子供の頃を思い出してみても、日本人は、犬好きとは全く言えない
民族だった。
犬は番犬、と言う、使役動物と言う意識が根付いていて、犬を大切にしている人間が、
精神異常者のレッテルを貼られていた時代は、まだ、たった20数年前の事だ。






決して犬好きでない人間と、犬の両者の間には、一定の距離が存在していて、精神的な、
非干渉地帯が存在していた。


それが、犬が犬らしく振舞える事を可能にしてもいた。
何故なら、犬好きな人間は、犬の本質を大切にしたし、犬に興味のない人間が、ブームに
乗って、犬を飼うなんて事もそうはなかったからだ(例外は、スピッツ・ブームだろうが)。
少なくとも当時の人間は、犬に洋服を着せようとは考えたりしなかった。





あの時代でも、今より良かったと思う事の一つは、人間は、犬を大切にはしなかったが、
その在り様を、そのままに受け入れていたという事である。




今の人間は、余りに生き者の習性や、本能的な部分に干渉を行い過ぎている。
特に犬に対して、この傾向は厳然として存在する。
まるで、犬を人間に「進化」させようとしている様だ。



犬を簡単に去勢、避妊して、洋服を着させて、エステに連れて行って、あの、犬独特の
毛者臭を奪い取って、家で猫可愛がりをしている昨今の飼い主は、私には実に、
ただの「犬嫌い」にしか見えないのだ。
だから、犬から犬らしい習性を排除しようと躍起になる。




確かにこれは、欧米でよく見られる、犬に対しての接し方だ。
少し前、確か愛犬国オランダで、犬も一緒に行ける映画館と言うのが出来たとCNNが
報じていた。




オランダの犬と言うのは、人間との混同種なのだろうか?
彼らはどんな映画に興味を持つのだろうか?
頑張れベンジー?
名犬ラッシー?



あれを見て、自分もスター犬になりたいとか、オランダの犬は思うのだろうか。
そうだとすれば、犬も長年犬らしさを否定されて来ると、生き残りを賭けて、どんどん
世俗化して来てしまうらしい。





まるでマイケル・ジャクソンみたいだ。
誇り高い、優勢血統である、黒人種の肌を捨てて、白人の姿を追い求める様な。
種としての、アイデンティティを奪われた為に起きる、悲劇か喜劇だ。




私だったら、犬は映画館には連れて行かずに、山や川や、海に連れて行く。
男に生まれていたら、絶対狩猟に連れて行ったはずだ。
何しろ犬は、狩りが至上の喜びなんだから。



歴史的に見ても、欧米は、犬の交配や、純血種と言う「雑種」を作り、散歩を
リードに繋いでしたり、様々な訓練を入れて、人間の思うとおりに動く犬を作って
来た。




それに対して、日本はこういう「ペット文化」を持っていなかった。
犬は昔から、そこらに生きる雑草の様に、素朴に、変わりなく生き続けて来たのだ。





それが、80~90年台辺りから、一変してきた。
ペットブームは一過性のものではなく、恒常的なものとなり、最早「ブーム」ではなく、
「文化」にまで発展した。



犬に対しての意識や接し方、その全てが、欧米的特徴を、そのまま輸入する事になった
のだ。
「ペット」に対する日本の文化は、たったこの20年ほどで、驚天動地の如く成長を
遂げた。



しかし、本来アニマ観(分かりやすく言えば、動物観)と言うのは、そう簡単に転換が
可能なものではない。




農耕民族の歴史を受け継ぐが故に、祖先から、犬との繋がりを学んで来なかった日本人
の文化の中には、明らかに生き者を、人より劣った「物」と見なす傾向があった。





こうした傾向は、日本の歴史の中で、一貫してあったと思っている。
農耕民族である日本人が、逆に敬ったのは、犬ではなくて、野生のオオカミであった。




彼らは大口の真神と呼ばれ、それがつまってオオカミになり、中国語の、「狼(ロン)」と
言う漢字の訓読みになった。





オオカミは、鹿を捕食する為に、畑の守り主として、信仰されていたのだ。
埼玉県にある、三峰神社は、そうしたオオカミを祭っている。






しかし、殆どの場合、オオカミ以外のアニマは、畑を荒らす「害獣」か、汚らしい野良犬と
して、日本人は、一般に、無下に扱う事が多かった(勿論いつの世でも、無類の
生き者好きは、この国でもいるに違いはないが)。





そうした日本人の「動物観」が、たった20年や30年で、どうしたらここまで変われる事が
出来たのだろうか?





あれほど犬は汚いから、家に入れるなと言っていた国家の人々が、今じゃ犬の室内飼いは、
当然だと主張する。






それどころか都会を見ると、犬同伴可のホテル、喫茶店、仕舞いに犬用エステまで、
まるで犬達中心に、経済が動いて、社会が再構築されていると錯覚(でもないかも知れない
が)してしまう程になっている。






私はこの日本民族の血を受け継いだ人間の一人として、冷静に見極めたいと思っている。
即ち、日本人は、本当にアニマ好きになったのか。
嗜好が急激に変化した理由は何故か。
そして、その新生文化は本物であるのか、このまま日本社会に根付くと思って良いのかを。






まず、日本の近代ペット文化の成り立ちを見ていると、これは紛れもなく、自国から発生
したものではなくて、アメリカを初めとする、欧米のペット文化を、そのまま受け入れている
事が分かる。






敗戦後、日本は、それまでの封建主義から解放された反動で、一気に世俗化が進んで
行った。


民衆は、金髪に青い目で、白い肌で長身の、アメリカ人や、欧米人に夢中になった。



彼らの装いや、建築や食生活、更には音楽に至る様々な文化を、砂漠の砂が、
水を吸い込む様に吸収して、自国の文化からの脱却を図り、新たな文化として、
受け入れ、社会の中で確立して行ったのだ。





記憶にある限り、東京から、日本らしさが消滅して行ったと感じたのは、昭和50年代
末辺りである。
「ペットOK」のマンションが、出現を始めたのは、もう数年後になる。





冷静に物事を分析してみれば、私は、日本人を打ち負かしたのが金髪で白い肌の
欧米人ー、つまり、コーカソイドと言う人種ではなくて、黒人種である、ネグロイドで
あったなら、こうしたミーハーな狂乱は見なかったのではないかと思えてならない。





我々黄色人は、自分の中にメラニン色素を持っている。
ネグロイドは、更に多くの色素を有している。
反対にコーカソイドは、その色素が全ての人種中、最も少ない。





自分の人種にないものを、病的に憧れてしまっているだけなのではないだろうか。




確かに、それに輪を掛けて金髪や、青い瞳と言うのは、とても美しい色彩だ。
金色の髪は、相手がそう言わなかったとしても、モンゴロイドよりも、神に近い人種なのでは
ないのかと、無知な人間には錯覚させる。





ミーハーも、度が過ぎれば宗教的崇拝の色が濃くなって来る。
日本人が、無批判に欧米の文化を取り入れ、それを尊び、有り難がり、誉めそやすのは
既に、宗教的傾倒にまで、陥ってしまっているせいだと言って、過言ではない。





結局日本は、敗戦と言う歴史的転換期を経験し、それまで信仰を捧げていた、神や仏を
信じるのを止めて、(自国が敗戦したと言う事実の中で、神や仏は存在しなかったのだと
言う、信仰を瓦解させる経験に、直面してしまったからである可能性が高い)代わりに、
金髪碧眼の欧米人を、新たな「神」として、信仰の対象にしてしまったのではないだろうか。






精神的な神々ではなくて、欧米人の駆使する、近代技術科学にこそ、絶対観と、
万能観を見出してしまった。
故に、欧米とは日本に取って、「絶対的存在」なのだ。
現代の日本人は、あらゆる局面に置いて、「欧米ならこうしている」と、言う様に、彼らの
文化や考え方を、行動の指針と見なしてしまっている。





こうやって日本人の魂の遍歴をとき解いて読むと、やはりこの国の人々は、とても
信心深く、敬虔な部分がその魂の奥に、連綿と受け継げられているのではないだろうかと
感じて来る。





勿論、この信心深さは、どちらかと言えば、求道者的な信心深さではなくて、むしろ
信仰を求めるのではなく、信仰による支配を良しとする、無教養さや、意思の弱さ、
そう言った欠点によって、導き出されて来るものなのだ。






つまり、圧倒的な存在や力に屈し易く、洗脳をされ易い人々(つまり、一般の民衆)に
見られる傾向なのだ。





求道者は、何でも自分の心で考え、見極めようとするから、簡単にはそうした存在に
左右される事がない。




彼らに取って大事な事は、「凄いか」ではなく、「正しいものか」なのである。




一般大衆は物事を分析するだけの、思慮深さに欠ける傾向がある為、集団心理に流される
と言う欠点がある。




マスコミが当時、ラジオや白黒のテレビの放送で、欧米の文化を賞賛を持って報道
すれば、民衆はいとも簡単に、その称えられたものを欲してしまうのだ。






彼らは、その社会に何らかの精神的指導者がいない場合では、烏合の衆と化して
しまう。




一人一人には、論理的判断を下すだけの、十分な知性を兼ね備えているにも
関わらず、それを発揮出来ないのだ。
彼らがそれを発揮するには、外側からの、精神的知性への呼び掛けが不可欠となる。





そうした存在を欠いてしまっている世界では、彼らはさながら、海の中で群れ、
それを全く崩さずに、一つの動きを維持する事だけを目的とする、魚たちの様な
ものなのだ。





行動は常に、状況によって左右されるものであり、意思によって決定されているものでは
ないのだ。





そして、近代から歴史を遡ってみても、日本には悲しむべき事に、殆どの国民が
認め、かつ、歴史の中で語り伝えて行く、精神的支柱となるべき、精神的指導者が、
一度も出現した事がなかった。






我々が道に迷った時、心に甦り、助けてくれる日本人を、誰か思い描く事が出来る
だろうか?
自分の個人的な支えではなくて、全ての日本人の、心の基盤になれる様な誰かを。
歴史や、社会問題に詳しい人間でなくても、必ず思いだせる様な誰かを。






日本の精神的支柱といえば、現実には天皇が挙げられるが、それも、位ゆえに崇め
立てられていたのであって、我々に、特に精神的道標と成る様な、道徳的遺産を残して
くれた天皇などはいなかったと思う。





そしてまた天皇も、敗戦と共に、我々の社会の中から、精神的支柱としての、存在を失って
行ってしまう。





敗戦によって、神や仏に対しての信仰と、天皇に対する精神的拠り所を失った日本人は、
その代わりに近代科学技術文明と、金髪碧眼と言う、この社会の人間離れをした容姿を持った
アメリカ人や、欧米人に、精神的支柱と、信仰心を見出してしまったのである。






その結果、日本文化は否定され、壊滅状態に追い込まれた。
我々は衣食住から、政治、余暇の過ごし方に至るまで、殆ど全て、欧米文化を継承して
しまっている。





ペット文化も、その中の大きな流れの一つである。




崇拝する欧米人が、「ペット」を溺愛する以上、その誠実な信者としては、その風習を
受け入れる事に全力を注ぐ義務があった。







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Last updated  2008.03.27 23:51:23



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