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テーマ:山田陽(145)
カテゴリ:日記
昨日は結局2時過ぎに帰ってきて、寝たのは恐らく4時ごろだった。
今日は待ちに待った舞台「走れメルス」を見る日。 小西真奈美が出るのだ。 そう、あの小西真奈美よ。 そう、あの小西真奈美。(2回目) というわけで1時半に堀切と東急本店前にて待ち合わせ。 ちょっと入り口に迷い、入場。すると最高の席。 かなり良い!! で、2時ごろ開演。ブザーとか無しに急に始まる。 小西真奈美と「会う」心の準備がまだできてない。。。 最初は濱田マリを含む大勢が出てきて、騒ぐ。 意外に背が低いんだ&意外に足太いな。と。 で、ちょっと騒ぎが収まったかと思ったら机の下から小西真奈美登場!! そう、あの小西真奈美。 背が高く、超細い。そしてもちろん顔が小さい! あぁ、僕もうダメ。 素敵すぎます。 そしてそのうち深津絵里も登場したりして大満足の舞台。 しかしながら、舞台の内容は全く理解できず。 きっと2回目、3回目、4回目あたりでようやく理解できるのではないか。 それぐらいの内容の複雑さ。終わった瞬間も「まさか、終わり?」 という感じ。 で、個人的な見解として述べさせてもらうと、 僕は「舞台=何か(主張や世界観だとか)を表現してそれを観客に伝える手段」であると考えている。他の方法を挙げるならば、映画だとか音楽だとか、講演だとか洋服だとか建築だとか、更にはビジネスだってそうだろうと考えている。そうゆう意味では今回の「走れメルス」は全く何も僕には伝わらなかった。僕にだけでなく、あの会場にいた99%のお客さんが理解していなかったのだろう。場面設定や人物設定などサッパリな部分が多い。舞台は元々状況説明などが無いので分かりづらいといえば分かりづらいのだろうが、今回のは全く理解を越える。一つ一つの場面、セリフは理解できる。しかし一つ一つの場面が全体として土のような役割を持ち、どの場面とどの場面が関連しているのか、全くわからなかった。 逆に演じる人はどうゆう気持ちなのだろうか。僕自身演技などは高校の文化祭程度でしかやったことがないのでなんともいえないが、自分達が伝えたいもの(あるとするならば)が観客に全く伝わっていないという状況は演技者としてどうなのだろうか。僕が想像できる範囲では、フラストレーションが溜まる以外の何者でもない。だってその状況と言うのは、自分の存在意義を見出せない状況であると言えるからだ。(全て僕の仮定の下)もしその状態で存在意義を見出せているのならば、それは所々で起きる笑いや、個々人の演技者のファンの存在、そして社交辞令的、「お疲れ様」的に起きる拍手による自己満足でしかない。 野田秀樹が脚本を書いている。そして彼は演劇界ではかなり評価されているらしい。彼の今回の舞台のように、演劇界、舞台全体の方向性が「よう分からん。しかしこうゆうものなのだ」的な流れになっているのならば悲しいことである。一般の人の興味が無くなってしまうから。 素人が生意気なことを言うなと思うかもしれない。しかし、素人だから言えるのだ。何にしろ表現するものに関わる人間として、目指すべきところは「何かを伝えたいこと」をしっかりと伝えることである。ここは譲らない。それは一般的な消費者の目であるのだ。僕が将来服を作るときでも、「何がいいのかしらんが、これがいいんだよな」なんては絶対に言わせたくないのだ。 ただ、9000円払って見る価値はあった。しかしそれは野田秀樹に払ったのではなく、僕の前に姿を現し、その素晴らしい姿を見せてくれた小西真奈美と深津絵里に払ったものと理解している。したがって、率直に「見てよかった」といえる。しかし見た人全員がそう思えるかと言ったら謎であるが。 そして舞台を見た後はゼミのミーティングで吉祥寺へ。 僕が着いたのが6時過ぎで、最初はサンマルク。その後8時からデニーズへ移動し、終電を敢えて逃し、結局家に着いたのは朝の6時過ぎ。タフ。超つらい。そしてこのまま銀座ストックのバイトへと兵は向かうのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.12.27 06:24:34
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