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あんのういもやさいダイアリー

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2019.09.09
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カテゴリ:宇宙意識など
ビリー 例えば、コロナが流行した結果、各国の政府は国家による全住民への強制接種を主張していること。しかし、これは身体の不可侵性に反する。けれども、ある種の支配者の中には、その無知さゆえに、何をすべきか分からないので、気にも留めない。これについては、どのようにお考えでしょうか?

プター もしそのようなことが命じられるなら、その行為は明らかにすべての法と秩序に矛盾していることになる。なぜなら、人間の身体の完全性を維持することは、自由な状態における緊急の憲法上の義務でなければならないから。もし、そのような一節が憲法上に記録されていないのであれば、それは当該国民が自分の自由を認められず、他者からの支配に従っていることを示していることになる。そしてこれは、国家の指導者たちによって、あるいは大多数の国民自身を誤解させることによって行われる。国民は、選挙を行うための投票用紙の解釈を誤るという点で、誤解を招くプロパガンダによって騙され、自由についての誤った解釈にさらされてしまう。そうすると自動的に、意見の違いや、ある事柄を支持する人と拒否する人の間で賛否が分かれることになる。こうして意見の相違が生じると、それは通常、口論や争いに発展し、最終的には、悪質な暴力行為や戦争とまではいかなくとも、デモや破壊に至る。
しかし、あなたが言われている個人的な懸念に関しては、私は残念ながら自分自身のコントロールを超えてしまった。なぜなら、私は自分の考えや感情の中で、地上の人々の幸福のために努力することを避けることができなかったから。
どういうわけか、ここしばらくの間、私は地球人類と精神的、感情的につながっていると感じていたが、残念ながら、我々の指令により、一般的な大多数が意識、知性、理性がまだ十分な力を持っておらず、悪から解放されて平和的に共存できるほど自己思考が進んでいない生命とコンタクトすることは禁止されている。
父スファートの時代からすでにそうであったし、それ以来何も変わっていない。だからこそ、我々の保護のために、この点に関するすべてが存在し続け、今後も存在し続けることになる。なぜなら、私たちや我々の民族は、有害な精神的・行動的な外部からの影響に対して免疫がなく、意識的に絶対的に高い立場にもかかわらず、常にその影響を受けやすく、制御不能な状態に陥る危険性を意味するから。
このことはまた、この現象が非常に長い間存在し続け、私たちの意識の発達が、あらゆる種類の精神的・行動的な衝動を、これ以上他から影響を受けないようにコントロールできるようになったときに初めて終わることを意味する。
しかしそれには、まだ何千年もかかるでしょう。というのは、私たちも人間である以上、生命倫理を最大限に発揮するための必要な枠組みの中で、まず自分自身を守り、コントロールすることを学ばなければならない存在だからである。
私たちが生命の道徳と呼んでいるものを、あなた方は地上で倫理という言葉で呼んでいるが、これはその価値において、生命の道徳に関連して人間によって考案された規則の構造に相当し、原則としてすべての人間が、考案された規則の価値に従って自分自身を形成し、自分と同等の仲間と一緒に生きていけるようにするために取り組まなければならない規則でもある。

ビリー その通りだね。さらに、倫理というのは、あなたが言うように、実際には人生の道徳であり、人間の正しい道徳的行動や振る舞いに関して、心理的な発明であることを説明しなければならない。
倫理学(単に生命の道徳と呼ぶものの)の課題は、詳しく言えば、人間が行動や振る舞いに関する生活のルールを学び、それを遵守することであり、それに従って、人々の平和で正しい共同生活や共存がそもそも可能になるということ。
これは、あなたが言うところの人生の規則、あるいは人生の道徳であり、すべての人に有効なもので、これがなければ不調和だけが広がり、一緒に暮らすことは不可能でしょう。というのも、全体がそのような相違に陥り、争いや憎しみ、復讐、報復、喧嘩、戦争などの結果だけが生じるものだから。
この生命の道徳、倫理がなければ(たとえ最小限の形で、まばらに人々に使われるだけでも、半ば「平和的」な共存・共生が可能になるのだが)、まったく何の役にも立たないでしょう。
人間によって極めてわずかしか取り組まれず、使われていない倫理という必要最低限の価値観が、不和、争い、憎しみ、対立、戦争などの脅威が常に存在し、その結果、何もかもが本当にあるべき姿ではなくなってしまう。
しかし、倫理的な価値観の精緻化と、ほんの少しの適用・使用で人々が共に生き、共存することができる。
通常、人々は、倫理の小さな部分を使って、その結果として、共同生活や一体感を実現、可能にして、余裕を持たせていることさえ知らない。というのは、心理学の専門家であっても、倫理のいくつかの価値観の適用だけで、人々が一緒に生活し、共に過ごすことが可能になるという事実について、まったく関心を示さないから。
倫理のルールは、個人とすべての人々が協力して、例えば夫婦関係、友人関係、地域社会、町や都市などの形で、共に生きる共同体が小規模でも大規模でも成り立つようにするためのものである。
このことは、残念ながら、その有無や実現性という点で、倫理という人間の「発明」が、言葉を通じて実際に地上の人々の間に存在するものではない、と言わざるを得ない。
しかし、実際のところ倫理は、個人にとって、また大多数の人々にとって、必要最小限の形でしか実行されていないのではないかと思う。
これは、集団の中で、町の中で、あるいは都市の中などで、結婚して一緒に暮らすことは(しばしば、良いことよりも悪いことの方が多いのだが)、一人が相手に対して骨肉を叩くことなく、倫理はその一部が使われる程度にしか培われていないが、大きな食い違いなしに同居や共存が可能な状態になるということにほかならない。
しかしこれは、人間が実際の倫理の価値や対象範囲の全体について気にかけることなく、何も考えずに、ただ人生を楽しむことに任せて起こること。
人類の大多数や心理学の専門家、そしてやり手の人たちも、倫理の実際の価値やその範囲、また、その実現に関心を持たず、ただその日暮らしで、起こることを起こるに任せている。
人の行動や言動を批判するようなモラル主義者も、実は、倫理の価値を学び、正しく生きていることには変わりない。というのは、彼らは倫理の解釈も、それを学び、生きる方法も、その意味を仲間に理解してもらうための説明の仕方も知らないから。
そして人は、倫理が何を意味するのかさえ理解せず、教えられてもいないので(この点に関する説明は表面的で、不完全なものに過ぎない)、またその中には、本来それ自体に備わっているよりもはるかに多くものが含まれており、人はまたその本当の意味と価値を探そうともしないため、結果として、人にとって全体が単なる言葉に過ぎず、絵に描いた餅でしかない。
本当は、倫理は人間にとって、道徳、モラル、規律、正しさ、優しさという形で精神的な行動の瞬間とも関係しているが、もちろん、良心、責任、反省、思いやり、価値ある姿勢や非常に重要な義務感、美徳、価値の考え方、共に生きるための大切な能力、一般的な生き方という価値も含まれている。
さらに、これには絶対的に個人の教養、規律と秩序、機転をはじめ、真実と行動のルール、個人のコントロールと正しさ、正確性と中庸のコントロール、その他あらゆる形の規則が含まれている。
そこには、道徳的責任の習慣、そのために重要で絶対に不可欠な責任感、そして基本的な道徳的態度のすべてを含んでいる。
このようなことは、人間には意識的に忘れられている。それについて、考えることさえ煩わしく、ましてや、真の積極的な倫理のあり方を自分なりに工夫して作り上げる努力をすることはないから。
こうして人は、倫理の価値について色々と盛んに語るが、それが実際にどのような価値を持ち、最終的に人々が合理的に平和のもとに共存することを可能にするのか、これはたとえ倫理のほんの一部がそれを可能にするとしても、人はそれについて考えない。
倫理を無視した結果、喧嘩、憎しみ、反乱、さらには戦争、殺人、傷害致死などが起こるのは、まさにこれらが表面的にしか、しかも偽って人に説明されていないからであり、そのために人は倫理を学び、それに従うことがいかに重要であるかを知らず、結果的にほんの一部分しか倫理に従っていないから、他の何にもまして外部からの影響を受けやすくなっている。

その結果、彼はあっという間に、美しい言葉で教え込まれたあれこれの主張の信奉者になってしまう(宗教的な妄想に関しては)。 
これらのほのめかしと呼ばれるような外部からの影響は、主に確信であり、人が何かを確信している場合、それは通常、説得以外の何ものでもなく、それによって処理されている人は、言われたことが真実と一致するかどうかを自分で確認する可能性もなく、言われたことを信じなければならない。
納得とは、基本的には誰かが、外部からの影響を受けて、動かされ、教え込まれ、取り込まれ、説得されることによって、自分の考えとは反対の新しい見方や意見に変わり、自分で考え、有効な真偽を確かめることもなく、それを信じてしまうことである。
説得とは、人が真偽不明、作り話、聞きかじり、あるいは信仰に基づく主張によって単に確信を与えられ、あるいは提供され、自分が言われたことや信じるように言われたことを真実あるいは必要なこととして受け入れるように導かれるような形で、全体として行われるものである。
このように、他人から影響、あるいは他人の発言や話を通じて(つまり、他人の影響によって)、自分に言われたことが本当に有効性のある真実に対応しているかどうかを確認することもなく、言われたことや語られたことなどを正しいことや真実として受け入れてしまう。
確信とは、何かというと、たとえその説得を啓蒙や事実や真理として提示しようとしても、自分の思い込みや意見に相当するものを説得することにほかならない。
説得というのは、どんな場合でも、その人の個人的な見解や意見で説得するものであり、またそうであることに変わりはない。一方、本当の事実と真実に基づいた解明と提示だけが、事実と真実と呼ばれるものであり、決して説得に等しいものではない。
確信というのは、実際には説得以外の何ものでもないのだが、人間は言われたことをためらうことなく信じる(このようなことは、説得または説得することによって行われる。説得とは、すでに存在するものが正しいか間違っているかに関係なく、その上に何かを置くこと、あるいは証言することを意味する。重要なのは、それが自分の見解や意見というよりも、何かを納得させるということ)。意見は覆われ、上書きされ、新しいもので覆い隠されるか、ただ納得させられたりする。 
これは必然的なことで、人が自らの思考を使って、言われたことの本当の真実を突き止めようとしないからこそ(外部からの影響によって)、起こること。
人は何かを新しい見解や意見として受け入れるが、それは言われたことを自分で考えることなくただ信じるだけであり、有効な真実を見極める機会を持たないためである。
しかしこのように、人は信じるだけでなく、信仰によって信じたことを広めるなら、嘘つきにさえなってしまう。
これは、たとえ心理学者の見方が違っても、倫理が真実の要素でもあり、意識的あるいは無意識的な嘘が倫理の価値を下げることを理解しようとしないため、倫理にも関係する。
倫理の実現には、その価値を意識的に努力し、生きることが必要であり、それは、地上の人がこの言葉で理解する以上に多くのものを含んでいる。
しかし、そのためには時間をかけて、自分で意識的に考え、判断し、行動することが必要であり、それは想像上の創造者である宗教的な信仰とは結びつかないものである。というのは、包括的な真実として求められているためであり、そのためには、人間自身があらゆる角度から自分の考えを育て、あらゆることについて自ら決断し、その結果として生じる行動を自ら実施し、それを実現することを目指して努力することにある。
このことは、意識的に考え、判断し、行動する生命と、一方で、衝動に従って本能的に純然と行動する生命(例えば、動物や生き物など)との違いが生まれ、それゆえに野生の生活を送り、人間の倫理とはかけ離れたものとなる。
また、全体として、人は倫理を学ぶのに多くの時間を必要とする。これは単に、生まれながらにして与えられるものではなく、実際には丹念に学びながら、身につけていかなければならないもの。
しかし、そのためには何年も、いや、一生のすべてを費やす必要があり、本当に人間が倫理的に自分をコントロールできるようになり、自分自身を卒業し、もはや信仰や信念といった外部の影響に左右される危険性がなくなったときに初めて終わる。
説得、嘘、作り話とか。例えば、与えられたものを装って、真似る、単に模倣する、採用するなどして従順になるなど。
外部からの影響のもう一つの要因は、ある人が行動の様式として行っている何かまたは全部を他の人に擦り寄ることによって、他の人がそれを採用し、その行動の様式が擦り寄った人そのものと同じように行動するような形で、それを他の人に伝達すること。
そしてそれは、人が他の人と関わり、その人の行動様式を受け入れ、自分もそれに従って生活し始めると、非常に早く起こる。これに対して、擦り寄りを防ぐために必要な精神的防衛が十分に慎重に行われていなかった場合に、非常に早くこのようなことが起こる。
この擦り寄りによって、他の人から悪影響や場合によっては生命を脅かすような行動の特性を受け取らないためには(それは非常に迅速に起こることで、どんなに意識が高度に進化した人間であっても、これに対する免疫を持っていないため)、常に防衛力を維持することが必要である。
しかし、思考が常にこの防衛に向けられているわけではないので、これは困難なことであり、その結果、悪しき行動を取りやすくなる状態が恒常的に続き、いわゆる外的影響が働くようになる。



さて、過去、現在、未来において、行為の結果として、あるいは言葉や意見などを通じて、地球人の信仰の面で反するようなことがあれば、それが何であれ、彼らは直ちに暴力で反応し、自分の性格の底に悪しき気質として蓄えられているものを現実化させる。
これはすぐに野心として思考の世界に入り込み、そこに何らかの外的な影響が発生して正常な動作を興奮させると同時に、制御不能な混乱を引き起こす。
これは、日常生活では無意識に抑圧されている性格の底にある本来の行動の種類を呼び起こすもので、それが突然、すべてが外部に押し出され、それによって、恐怖と同時に自制心という中途半端なコントロールを打ち消す興奮地点に達したときに、問題を引き起こすのである。
論理、知性、理性は、考えようによっては、あらゆる思考からかけ離れたものである(絶対に疑問が残る)。

というのも、地球人は自分が不利だと思い込み、自分にもたらされるあらゆるものに反発するように、一瞬の思考の断片が閃光のように思考回路を駆け巡るということだけでもフリースタイル思考が主流になっているから。
これは、本当に論理的に、合理的に、明確に考え、それに従って正しく判断し、行動する代わりに行われるものである。
その結果、争い、恐れ、暴力、復讐、報復、殺人と殺害、憎しみと破壊は、制御不能な行動と現実に変換され、ただ抑制されずに起こることを許容されたものすべてから生じているという結論に至る。
論理的には、人間はあらゆる不正から身を守るべきであるが、決して悪意で、暴力で、殺人や過失致死や破壊で、憎しみや復讐や報復で行うのではなく、ただ正しい手段を用いて、平和的であり続けるべき。そして、この点に関して、私は次のような考えを持っている:

私が人々に望むことは、特にすべての ○ ○ ○ ンバー、すべての ○ ○ ○ メンバーとパッシブメンバーと後援メンバー、すべての ○ ○ ○ 友人、 ○ ○ ○ とその生き方に好意的で善意のあるすべての人々、みんなが自分たちのために、争いのない生き方のために、憎しみや復讐や報復なしに、澄んだ心で、よく考えた論理と理性をもって次の点を適用すること。
1.あらゆる正しさについても、第一に、常に正しい言葉が適用される。
2.二番目に、正しい行動。
 例えば、
どのような状況においても、用いられるものはすべて、正義と平和のために行われ、明瞭さをもたらし、誤解を解決し、争いや恨み、復讐や敵意がもたらさないようにすること。
3.あなたの言葉、態度、正しい行動に関して、常に率直で正直であること。
4.公的なデモに匿名の者として参加せず、叫んだり破壊したりするデモ隊やその他の賛同者の集団の中に匿名の者として隠れないこと。
5.常に真実を語り、その通りに守ること。
6.決して言葉に惑わされず、何事も押し付けがましくなく、正直に言ったこと、真実に対応することをしっかり守ること。
7.ある事柄について喜んで教えを受けるが、自分が知っている確実で有効な真実から決して離れてはならない。
8.まず、決断したり、行動したり、何かを言ったり、質問に答えたりする前に、建設的な思考と考察する能力を発揮しよう。

これは、あなた自身の意識的で適切な思考と考察は、起きていることに対するあなたの注意力や警戒心だけでなく、本当に考えていることの価値をも証明してくれるものだから。

かつて、私がすべての人々に言いたかったこと、アドバイスしたかったことであり、現在でもその思いは変わらない。
私たちの会話を呼び出して書き留めたとき、それが読まれ、正しく理解され、守ってくれることを願っている。

というのも、私は誰かに何をすべきかを決めつけたくはないから。
人生をふさわしく、誠実に生き抜くためには、何をすべきか、何をしなければならないかを、誰もが自分で知らなければならないから。
しかしそのためには、何事も現実と真実に即して考え、正しい判断を示し、正しい行動をとることが必要である。

第788回 会見(抜粋)





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最終更新日  2023.06.28 12:31:23


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