2012/03/25(日)00:42
「ジキル&ハイド」 @ 日生劇場 舞台の神さまが降臨
3月8日に引き続いて、3月22日の夜公演を観た。
2週間のあいだに、ぐっと進化。舞台の神さまの降臨を感じたね。
(3月8日公演の感想 パワーアップした 「ジキル & ハイド」 @ 日生劇場 エマの存在を深めた笹本玲奈さん)
何よりうれしかったのは、ジキルの婚約者エマの父を演じる中嶋しゅうさんの歌が、心を打つ 「語り」 になったこと。
俳優・中嶋しゅうさんのことをぼくは尊敬している。
平成20年10月の市村正親さん主演の 「キーン」 では、付き人サロモン役としていい味を出していたし、平成21年11月の 「ヘンリー6世」 のグロスター公は悪役ながら凛としてあっぱれだった。
その中嶋しゅうさんの3月8日の舞台は、歌の出来が散々で、浮いていた。このかたにミュージカルをさせたのは酷だと思った。
それが、3月22日の舞台では、歌の部分も地声で力強く語り、それがたまたまメロディーに乗っていたという具合で、娘エマに歌い掛ける中嶋しゅうさんのことばに、ぼくは涙を流してしまった。
歌詞の文末、通常ならメロディーに合わせて 「心配だぁぁぁ」 のように伸ばすところも、「心配だッ」 と、あえて切ることで、歌が語りになった。
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そして濱田めぐみさんの娼婦ルーシー・ハリスが、ふっきれた。
3月8日の舞台のルーシーは、どことなく “いい子ちゃん” が残っていた。つまり、濱田めぐみの理性が残りすぎていたんだね。
3月22日のルーシーは、娼館の女としての図太さが身について、だからこそ、ときに恥らうルーシーにドキッとさせられる。
マルシアさんのルーシーに、ぐっと近づいた。
石丸幹二さんのジキルも躍動が増した。ジキルそのひとが既にして持っている二面性がにおいだした。
ジキルは単なる善人坊っちゃんではなくて、高ぶって我知らず激するし、とんでもないことをやらかしそうな危なっかしさがあるほうがいい。
3月22日のジキルは、そういう複雑な人物として立ちあらわれた。
吉野圭吾さんのアターソンも、練れてきた。
3月8日には、劇前半のアターソンがチャラっとしていて、吉野圭吾さん流の怪演がにおった。
3月22日のアターソンは、誠実な友人としてのイメージで統一され、ルーシーに 「早く逃げろ」 と語る切迫も納得の出来だった。
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3月22日には、石丸幹二・吉野圭吾・塩田明弘さんによるアフタートークがあった。
指揮者の塩田さんは石丸幹二さんのことを 「マルちゃん」 と呼んでいた。
石丸 「演技は毎日変わりますよ。吉野君との掛け合いも、そのときの2人の気持ちに従ってやっている感じ。
最近感じるんですが、ジキルとハイドだけじゃなくて、プラス・アルファのもう1人が加わって、3人になっちゃってるんです。芝居をやっているうちに、だんだんと出てくる。
とくに最後のところ、エマの首を絞めながら瞬時にジキルになったりハイドになったりしているところなど、ジキルという人格とハイドという人格だけじゃなくて、その双方を見ている更に別の人格がいる」
塩田 「最期は、ジキルとして死ぬんだよね」
石丸 「そうです。ハイドになって死ぬとしたら、悲しすぎる」
吉野 「もしもハイドのまま死ぬんだったら、もう1度ピストルを撃ってジキルに戻させますよ」
吉野圭吾さんによると、ピストルがたまに不発のときがあるらしい。
3月8日にはジキルが結婚披露宴でハイドと化してからの時間がずいぶん長くなっていて、てっきり演出が変わったのだと思っていたが、3月22日には展開がスピーディーで、5年前の舞台どおりだった。
たぶん、3月8日にはピストルが不発で、それを取り繕うために想定外の動きが舞台上で行われていたのだろう。
吉野 「もしも全発鳴らなかったら、ぜったい口で言いますよ、パーンパーン! って。
だって、そうしないとハイドが死なないでしょ」
塩田 「あそこは、パーンと銃声が鳴ったところで音楽を始めなきゃいけないから、意外とタイヘンなんだよ。今日はピッタリ合ったけど、たまにズレるとショックだね」
石丸さんの歌い間違いも話題に。
塩田 「作詞してるよね」
石丸 「イメージがその場でことばになって出てくることがあるんですよ」
塩田 「歌詞を間違っているように聞こえないからすごい」
石丸 「湧き上がる何かがそれを言わせてる。そのとき何かが降りてきてるんです」
ミュージカル 「ジキル & ハイド」 は、日生劇場で3月28日まで上演。その後、4月には大阪と名古屋で。