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テレビ・新聞が報じないお役に立つ話

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2021.08.15
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下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

人はいつか老いて病んで死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から切り離し、親の老いによる病気や死を、病院に長い間任せきりにしてきた。結果、いつの間にか死は「冷たくて怖いもの」になり、親が死ぬと受け止め方がわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。
看取り士とは、余命告知を受けた本人の家族から依頼を受け、本人や家族の不安や恐怖をやわらげ、思い出を共有し、最後は抱きしめて看取ることをうながす仕事。
村田晶子さん(仮名・59)と楠木智美さん(仮名・52)の姉妹は、看取り士の助言と支援を受けながら、認知症の母親(89)を看取った。2人が体験した看取りとはどんなものだったのか。
告別式後に受け取る「母親からのギフト」
2021年2月末、母親の告別式から約1カ月後のことだ。看取り士の清水直美さんをまじえて、晶子さん、智美さん姉妹の会話がはずんだ。話題は母親が息を引き取った後の出来事。Zoom取材に応じてくれた、妹の智美さんが話す。
「清水さんが布団をめくったら、お母さんがなぜか腕を組んでいて、清水さんも『キャッ!』って驚いたんです。腕を組むのはお母さんのくせでしたから」
姉の晶子さんはその経緯を説明する。
生前、よく腕組みをしていた母親(写真:村田さん提供)
「実は、息を引き取る少し前に施設の看護師さんが来て、母の左手の指で血中酸素濃度を測ったんです。そのとき組んでいた腕を一度外したんです。だから、いつの間にまた組んだんだろうねって、3人で笑ったんですよ」
智美さんは、告別式などの慌しさの中で、肉親の最期にじっくりと寄り添った看取りの感動が薄れていったと話す。
「看取りに立ち会った家族同士でも、そのときの記憶は互いにバラバラで、曖昧だったりします。ですから、面談では看取り士さんをまじえて、ちぐはぐな記憶の答え合わせができる感じがいいんですよね」
一般社団法人日本看取り士会に所属する看取り士は、看取りを終えた後で、依頼者と再会することは今までなかった。
しかし、コロナ禍が長引き、面会もできずに親が病院などで他界し、家族が指一本触れることなく火葬されることも増えた。肉親の死にちゃんと立ち会えずに後悔をつのらせる人や、喪失感から立ち直れない人たちも増えている。
そこで故人に改めて心を寄せる時間を持つために、看取り士が依頼者と面談をすることが増えている。四十九日の法要までに看取りの過程を振り返るのだ。
「先の母の腕組みについての笑い話も、その面談時に生まれたもので、私は母からのギフト(贈り物)だと思うんです。だって、亡くなってからも私たちを笑わせてくれる母って、やっぱり偉大ですもん!」(智美さん)
今でこそ、母親の看取りをそうにこやかに振り返る姉妹。しかし、認知症の母親が最初の余命告知を受けた2019年末頃、2人の関係は険悪だった。
看取り士の姿勢に驚き、喜び、泣いた理由
「初めまして、看取り士の清水直美です。おつらいところはないですか?」
看取り士の清水直美さん(写真:筆者撮影)
元看護師で看取り士の清水さんは、ベッドでエビのように体を丸める母親(89)に顔を20㎝ほどに近づけ、背中をさすりながらそう声をかけた。2019年の大晦日の午後、都内の病院の一室。
当日が看取り士との初対面で、その後に姉妹は看取り士の派遣契約をかわす予定だった。
「お母様は少し震えていて、何かにおびえていらっしゃるようでもありました。ですが、私の問いかけにはうんうんとうなずいたり、時おり私に視線をちらちらと送ったりしてくださいました」(清水さん)
認知症を長く患う母親に、清水さんが普通に接してくれたことに、姉妹は驚きながらも、うれしかったと話す。智美さんが後悔も込めて振り返る。
「施設の人も私たちも長い間、母とはそんなふうには接してこなかったからです。意思の疎通がとれないと思い込んでいましたから。ですから清水さんの普通の接し方が、ある意味カルチャーショックで、心がふわっとゆるんだんです」
病気とはいえ、智美さんは母親を人間として長い間見ていなかったことが申し訳なくて、涙があふれて止まらなかった。どんな状態であれ、人として普通に向き合う看取り士の姿勢が、姉妹の先入観に風穴を開けたことになる。
胃潰瘍や逆流性食道炎などで入院した母親が、退院して施設に戻る前のことだ。施設側は食事が自力でとれないなら、胃ろうを増設して戻ってきてほしいこと、さらに施設での看取りはできないことを伝えてきた。
姉妹は母親に負担の大きい胃ろうを拒む一方、約6年間過ごした施設で暮らし続けられるようにと、母親に食事をとらせようと懸命だった。でないと施設を追い出されるし、食べないと死んでしまうからだ。
ところが、母親は頑なに食事を拒み続けていて、姉妹は焦っていた。血管が細い母親は、点滴を打てる部位もほぼなかった。
看取り士の清水さんは、そんな姉妹に何度も繰り返した。
「言葉にならないお母さんの気持ちを、ぜひお二人で考えてみていただけませんか。(施設)退所のことはいったん脇において、まずはお母さんが食べたくない理由を少し考えてみませんか?」
ベッドで体を丸める母親は衰弱しているのではなく、清水さんには周囲からの強引な働きかけを、意思をもって拒んでいるように見えていた。
清水さんが帰った後、姉妹は話し合った。そのとき「看取り士さんに助けてもらって、お母さんを看取ってあげようよ」と言う妹の智美さんに、姉の晶子さん「やればいいんじゃない」とそっけなかった。
晶子さんは、清水さんの母親への挨拶には心を動かされたものの、まだ看取り士自体はうさん臭いという印象をぬぐえなかった。智美さんは姉の投げやりな態度に腹が立ち、1週間ほど口をきかなかったという。
母親を喜ばせることで姉妹の確執も消える
智美さんは、母親の死を考えると怖かったと当時を振り返る。
それでも「お母さんの気持ちを考えてみませんか?」 という清水さんの問いかけに、不吉な未来は棚上げし、母親が今生きている時間に集中しようと決めた。
「母が好きだったテレビドラマ『渡鬼(渡る世間は鬼ばかり)』を見せたり、主題歌をスマホで聴かせたりすると、顔が穏やかにほころんだんです。それをきっかけに何に喜ぶのかを、姉とゲーム感覚であれこれ試すようになりました。すると、よく聞き取れないながらも、母が鼻歌を口ずさんだりもして……」
意思の疎通はできなくても感情のやりとりはできる。そう気づくと、家族3人の時間が姉妹にはいとおしいものになっていく。母親の体調も終末期を脱して、いったんは回復に向かった。
同時に、姉妹間のこわばった感情も少しずつ解けていく。
「父は生前『智美が生まれてから、ウチは明るくなった』と、うれしそうに話していました。私は通知表に毎回『真面目』と書かれるのに、妹は正反対で『天真爛漫』。だから自由奔放な妹がいつも羨ましかったんです」(晶子さん)
智美さんの言い分は違う。
「私は逆に姉が成績優秀で、父親から通知表をほめられ、絶対的な信頼を得ていることが羨ましかった。小・中・高校と姉だけが入学祝いをもらえて、私はずっともらえない恨みも積もりつもっていました」
どんな兄弟姉妹にもありそうな恨みつらみの数々。
母親を喜ばせようと家族の思い出をたどる作業は、50代になった2人が、母親の看病で持てた「誤解の答え合わせ」(智美さん)の時間になる。亭主関白で怖かった父親に愛されていた記憶を共有することにもつながる。
姉の「今日ここで看取れる」という心境変化
2021年1月中旬、看取り士の清水さんは再び母親の病室にいた。新型コロナ禍による面会禁止で、晶子さん自身も約1年ぶりの特別面会。施設から母の体調が急変したと連絡を受け、清水さんを呼んでいた。
母親はたんが絡むらしく、喉の奥をゴロゴロと鳴らしているのを見て、晶子さんは清水さんに大丈夫かと尋ねた。元看護師の彼女の答えはきっぱりとしていた。
「唾液を飲み込む力が弱っていて、喉の奥にたまっていて音がしますが、見た目ほどおつらくはありません」
だか、やがて下あごが落ちて無呼吸状態になり、最期が近づく前兆ではある。
「どれくらい持ちますか?」
「夜は越えられないと思います」
清水さんの率直な意見を聞いた晶子さんは、午後の出勤を諦めた。
「尋ねたことにだけ的確な回答をしてくださる清水さんに、強い信頼感を覚えました。以降は苦しそうな母の顔さえ、落ち着いて見ることができましたし。すると、母が亡くなることへの恐怖心が消え、なぜか『今日ここで母を看取れるんだ』という、前向きな気持ちになれたんです」
約12年前に痴呆症と診断されて以降、晶子さんは実家の近くに家族と引っ越してきて、2013年に施設に預けるまで約3年間、実家での介護を続けた。施設に預けた後も、長女として母を他人に委ねた罪悪感に一人苦しんできた。
だが、看取り士の支援で、病気をこえて母親との感情のやり取りが生まれ、険悪だった妹との関係も修復できたと晶子さんは語る。
「母親の久しぶりの笑顔や、両親に愛されてきた記憶を妹と共有しながら、気持ちの整理を少しずつ進めてきました。姉妹で看取ることで、先の罪悪感もふくめた母親へのマイナスの感情も、全部帳消しにできると思えたんです」
姉の説明に、智美さんも隣のZoom画面で黙ってうなずく。
「明るくて温かい時間」に迎えた母親の最期
母の病室では、母親のベッドのそばに姉と妹と清水さんが座り、姉の夫や妹の娘らはそれを遠巻きに見つめていた。
やがて母の下あごが落ちて無呼吸状態に。それでも晶子さんが「孫娘の○○が来るまで頑張って!」と声をかけると、母は長い間合いを経て息を吹き返した。母親の粘りに「やるじゃん!」と妹が声を上げ、姉は拍手した。また、あるときは姉が「偉い、偉い」と、息を吹き返した母親の額をなでたりもした。
あれほど恐れていた最期が確実に近づいているはずなのに、病室の空気はむしろ明るく、温かくなっていく。
実は妹の智美さんは、母親をきちんと看取るために、看取り士の養成講座を受講して自らも看取り士になっていた。
しかし、母親が亡くなる直前、彼女は看取られる人の後頭部を太股の上にのせて行う看取りの作法を、姉の晶子さんに譲った。母親は晶子さんに抱きしめられながら息を引き取ったという。
その後、智美さんや晶子さんの夫、姉妹双方の娘が順に、ベッドに上がって母親の頭を左太ももにのせて抱きしめた。
晶子さんにとって鮮烈だったのは、自分の右太ももの上で息を引き取った母親の背中の熱さだ。亡くなる前に入室した施設の看護師が検温すると38度4分もあって、とても驚いていたという。心臓が止まった後はさらに高熱になっていた気がすると、今度は智美さんが話してくれた。
「腕や手は冷たくなっていたんですが、背中は高熱を出した子どもと同じくらいの熱さでした。この母の強いエネルギーを、私たちが受け取ってこれから生きていくんだって、とても腑(ふ)に落ちました」
家族が交互に抱きしめて看取る理由がそこにある。
荒川 龍 : ルポライター





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最終更新日  2021.08.15 15:30:05
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