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関本洋司

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2004年10月06日
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テーマ:戦争反対(1187)
カテゴリ:コラム
長文になりますが、以前の書き込み、『子供と軍人』(改訂版)を書き直してみました。

 芥川龍之介は1927年に刊行された『侏儒の言葉』で次のように述べています。

 「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋織の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も--私には実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」

 これは僕に言わせれば、逆に子供に可哀想な比喩です。僕の解釈だと軍人及び軍事オタク(オタクとはアピールする能力や手段のない研究者のこと)は幼少の時、心のゆくまま遊んでおらず、充実した子供時代を通り抜けていないから、大人になって「代補対象」を探すことになるというものです(*)。それは消費社会のもとで席巻するフェティシズム(物神崇拝)の原因などに幅広く当てはまる考え方でもあります。
 そもそも戦争と精神分析とは密接な関連があり、第一次世界大戦の帰還兵の神経症の症状がフロイト(*)やラカンの研究に材料を与え、後年ではベトナム戦争期にはやはり帰還兵の心的外傷(PTSD)がカウンセリングや考察の対象となりました。ナチスドイツに対する集合無意識的なユング流の分析や、ライヒの分析もありましたし、さらに権力者個人に対する精神分析はヒトラーからブッシュ(サッカーでいえばトルシエも対象になった)にいたるまで盛んです。ただ、今日では彼らが何としても権力を握る前段階でのカウンセリング(対症治療)が望まれます。ブッシュなどは明らかに自らの純粋性を自ら信じるための偽証を経歴上で行なっていますから。
 もちろん、こうした精神分析以上に大事なのは資本の分析です。
 例えば、戦後総理大臣になった石橋湛山は「大日本主義の幻想」という論文で、植民地を棄てた方が経済的に見て日本のためになると、すでに芥川と同時代に書いています(岩波文庫『石橋湛山評論集』)。
 現在、子供が思いっきり遊ぶためにも、残念ながら自然環境が残っているわけではなく意識的な社会的資本の整備が必要ですから、精神分析と同時に石橋湛山がやったような資本の分析が必要になります。
 先に引用した芥川の思考は断片的で、そこに資本の分析を含んでいませんでしたから、「酒にも酔わずに」勲章を下げて歩ける軍人に対しイロニーをぶつけることしか出来ませんでしたが、そうした心理的な面に限られた分析を補うために(繰り返しになりますが)石橋湛山がやったような資本の分析が今後はさらに大事になるでしょう。
 ただし、最初に引用した『侏儒の言葉』に話を戻すなら、芥川の以下の記述などは昭和2年にしては鋭いものだと思います。芥川はここで構造的な思考(これは精神分析にも資本の分析にも必要な思考法だ)はしていませんが、ニーチェに迫るような直感的な神経の震えで、当時の日本人の愛国主義化する風潮を批判しています。 

 「日本の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加は新聞の伝へる通り、『正義の敵』といはなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反している。」(「武器」『侏儒の言葉』1927年より)
「理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。即ち理想的兵卒はまず無責任を好まねばならぬ。」(「兵卒 又」同)
「軍事教育というものは畢竟只軍事用語の知識を与えるばかりである。」(「軍事教育」同)

 とはいえ、芥川の批判(及び不安)を追い抜くような形で、文壇の小春日和は過ぎ去り、その後の日本は急速に軍国主義化していきます。
 資本の分析と精神分析との両方に鋭い分析を発揮し得るラカンの理論に関しては、またいずれ書きたいと思います。

*注1
 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で主人公にこう語らせている。
 「・・・休み時間に若いひとたちが戦争ごっこをしたり、追剥ぎごっこをしたりするのも、やはり芸術の芽生えだし、若い心に芽生えかけた芸術欲ですよ。こういう遊びのほうが、往々にして、劇場の演(だ)し物よりうまくまとまっているものですよ、ただ違いと言えば、劇場へは役者を見に行くのに、こっちは若い人自身が役者だというだけでね。でも、それはごく自然なことでしょう。」(『カラマーゾフの兄弟』下、新潮文庫)
 これはルソー流の社会教育とは観点が全く違うということを追記しておきたい。

*注2 
 柄谷行人は最近、憲法第九条とフロイトのいう「超自我」とを重ね合わせて考察している。
 「先ほどいった『国家が超自我をもつ』という現象は、戦後日本の憲法第九条のようなものですね。フロイトは前期には、超自我は親や社会から押しつけられた規範が内面化されたという見方をしていましたが、後期には、それは自らの攻撃欲動が内面化して生じたという見方を出しています。そのように言うとき、僕は、フロイトは第一次大戦後のワイマール憲法のことを考えていたのだと思います。それは外から押付けられた強制だから、そのような文化から解放されなければならない、自然に帰れ、という世論の中で、フロイトは憲法を擁護しようとしたのだと思うのです。たとえば、日本では、戦後憲法をアメリカ占領軍に押し付けられたという議論がいつもなされています。ドイツではそういう議論は絶対出てこない。その理由はこうです。ドイツでは第一次大戦後のワイマール憲法が、日本の第二次大戦後の憲法に該当するのです。ドイツでは、それを嘲笑し廃棄してナチになった。だから、もう二度と戦後の憲法は外から押付けられたから廃棄する、などとは言えない。ところが、日本はもう一度失敗を繰り返さないと、戦争放棄を自らのものとして確認できないでしょう。
 その意味で、アメリカもベトナム戦争のあとで、やや『超自我』をもちかけたことがあった。ところが、湾岸戦争を通して、国家が『健康』になってしまった。今度重大な失敗をすることで、もう一度『超自我』を回復するかもしれません。アメリカはいずれヒロシマの問題に直面しますよ。アメリカは核戦争をやった国なのです。このことを言われると、多くのアメリカ人が血相を変える。それは日本人が南京大虐殺のことを言われるときと似ています。彼らはただちに、原爆投下によってアメリカ兵および日本人を救ったのだと弁解する。もちろんそれは嘘です。あの機
会を逃すと核実験ができなかったし、またソ連に自らの軍事力を見せつける絶好の機会を逸することにもなったからです。しかし、そういう過去について真実を認める時期が必ず来ます。」
 (「資本・国家・宗教・ネーション」柄谷行人、聞き手・萱野稔人、『現代思想』2004年8月.p43~44より)

///////////////////////

付録・『子供と軍人』(思考構造チャート図)
チャート図をつくってみました(ただし既出のタ-ムだけで作成していません)。

  子供時代AB
   /|
遊び  遊び(遊び=全体性)の欠如→体育会系→自衛隊B→→→→→→→→→→↓
    |                                *  
    軍隊・軍事オタクAB
     /     |
アピールなし    アピール(アピール=「他者」)あり
   |        |
アピールの場を捏造   | 
   |        | 
アメリカ追従再軍備B  軍事専門科或いは芸術家(宮崎駿etc)A→研究や芸術による昇華
   | 
   |→インターネット掲示板AB→対話による昇華A
   |
(防衛庁長官etcによるヴィジョンのない防衛計画)              *C
   /    |                             ↓
日本の入亜D  沖縄の犠牲(結果的な地方の独立反乱)B←自衛隊の海外派兵等←     
        |
地雷や誤爆による子供の死(不十分な福祉政策による病死も含む)B

注記:
それぞれの場で次の処方箋が有効
A=精神分析                      
B=資本の分析
C=くじ引き式徴兵制
D=サッカー野球等のスポーツ

解説:
 そもそも「遊び=全体性」というのは僕の仮説なので、ここに議論の余地がある。
 また、この場合、遊びといってもジャン・ジャック・ルソー流の、自然と社会を切り離したあとで「自然にかえれ」というような人的操作な遊びは有効ではなく、ドストエフスキーの言うように一見、「野蛮」な遊びがかえって有効であろう。これは子供達の遊びを見る大人たちの寛容さが問われ、そもそも環境面における自然破壊(辺野古や磯子などのケースが代表的)などが反省されるべき理由でもある。
 広い意味での遊びこそが、全体的な視野を獲得するための訓練として最大の処方箋であるが、分化したレベルでは様々な処方箋があり得るだろう(治療後を示す「昇華」はフロイトの用語)。精神分析と資本の分析は、併行するものとして常に前提とされるべきものだ。
 くじ引き式徴兵制は、アメリカのリベラルから提案された、あくまで最悪のケースにおける意識改革の劇薬であり、ジョン・ロールズもベトナム戦争時に最悪な状況でも公平さをかろうじて確保しようとして意図したものだということを注記しておきたい(講談社『現代思想の冒険者たち・ロールズ』参照)。
 地方の独立に関しては、現実的に地域通貨の研究を個人的にしていることを追記しておきます(循環型社会をつくるツールとしての地域通貨に関しては、blogトップ頁から関本の他の書き込みを御覧下さい)。
 スポーツの有効性に関しては、すでに別の普天間基地の跡地利用ヘの提案として「日記」に書きました。
 上記のチャート図は今後、この掲示板で御批判を受けた上で改訂版をつくり、さらにそれを基にした文章、『子供と軍人(新改訂版)』として「日記」に掲載したいと思います。
 また、憲法第九条こそは、世界憲法として日本が全世界に積極的にアピールできる数少ないものであるということも特記しておきたいと思います(ですから僕は改憲/加憲論者といった消極的な立場にはなく、積極的に憲法第九条を世界にアピールしたいと思っているわけです)。





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最終更新日  2004年10月06日 00時25分09秒
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