グーグル・アマゾン化する社会 松岡正剛の予想
松岡正剛 千夜千冊 グーグル・アマゾン化する社会web2.0の次にくるものを大胆に解説しています。---------------引用----------------------ウェブ2.0社会の次を告げる候補のいくつかは、すでにあがっている。たとえばケータイとの連動、ティム・バーナーズ=リーが提唱する「セマンティック・ウェブ」の可能性、坂村健開発のトロンなどによる「ユビキタス」の生活汎用化、サーチエンジンそのものを広告メディアやコミュニケーションメディアとして活用するSEO(Search Engine Marketing)の斬新な工夫、CMS(Contents Manegement System)の徹底化とそのアプリケーション・システムとの連動、ずっと以前から言われ続けている放送と通信の融合、マイクロフォーマットによるメタデータの構造化などである。 しかしぼくは、これらもさることながら、次のようなことをぼんやりと考えている。さっきも言ったが、「擬同型モデル」については伏せておく。 第1には「コンテンツからコンテキストへ」という技術変化がおこるだろうと思っている。いまのところ検索技術は、あくまでコンテンツのキーワードに依存したままにある。これをコンテキスト(文脈)の検索や編集にグレードアップさせるべきである。ユーザーは欲望が満たされることがわかったのちは、意志を文脈あるいは物語として表明したくなるものなのである。 第2に、評価システムにもっと独自のしくみを入れたほうがいい。これまでの評価は大半がリコメンデーションだった。そこには「評価する人の顔」も、またそのリコメンデーションにまつわる「物語」というものも、なかった。これは数値化に頼ってシステムをつくってきたからで、むろんそれはそれで重要なのだが、そこに「顔」や「物語」を入れるべきなのだ。それにはおそらく、「顔」(人)を評価し、その “相場”が上がっていく実社会における考課システムのようなものが必要になるだろう。 第3には、ウェブ2.5やウェブ3.0というものがあるのなら、そこにはきっと画期的な学習システムが入ってくるだろうということだ。この学習には「知識の学習」「欲望の学習」とともに、「方法の学習」が必要である。じっくり学びたい、深く学びたいという機会はこのままではしだいに失われていくだろうからだ。さらにいうのなら、そのためには今日のアルファ・ブロガーに代わるような“ウェブ師範代”が必要なのである。 第4に、これはすでに「インターネット・マガジン」編集長で、インプレスR&Dを代表する井芹昌信さんが予告しているのだが、「祭」のようなものが導入されるか、創発されることになるだろう。 ぼくも「連塾」第II期を「絆走祭」(はんそうさい)と名付けてみたのだが、ウェブにおいてもポップで知的な天神地祇たちを招く「祭」が必要になっているにちがいない。つまり一年のどこかの一定期間にやってくる“行事”がほしい。ウェブのポータルサイトやウェブサイトというもの、あっというまに飽きられる宿命にある。 これを活性化させるには、ひとつはグーグル化やアマゾン化をおこすことだが、おそらくこれは当分何をやってもグーグル・アマゾンに持っていかれるだけだろう(勝てないだろう)。そうだとすれば、独自の祭をネットワーク各地とリアル各地におこすべきなのだ。そして「胸騒ぎ」をつくるべきなのだ。いまは、それがない。とっくの昔、西行がこう歌っていた。「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」。 第5に、ウェブ独自の「時間」や「消耗」を函数として発生させるといいだろう。現在、ウェブ・ネットワークのすべてには「摩滅しない時間」と「無制限に広がる空間」が、衛生無害に入っている。 しかし、こんなことはどこかで気持ちが悪くなるものだ。時間が速く進んだり、賞味期限をもっている電子貨幣が出回ったっていいはずなのである。貨幣というもの、もともとが記録性と代価性と時間性によって生じてきたものなのだ。生産の余剰と不足のズレが貨幣を生んだのだ。それならばウェブ2.0以降の社会では、“時計のついた価値”があらわれていいだろう。 また、ウィルス同様、ウェブで生じる面倒は何でも消毒してしまえばいいというものでもない。そもそも市場社会というものはソーシャル・コミュニケーションの一部のことをさしている。市場社会に人生が入っているわけじゃない。逆である。そうだとすれば、ウェブにはちょっとしたローカリティやマージナリティも必要なのだ。これを日本では「界隈」と呼んできた。「界」はウェブ社会に、「隈」はコモンズに当たっている。 まあ、こんなところにしておこう。 あまりコンセプトやアイディアを出しすぎるのも、またぞろお手紙がきて、「さしでがましいことですが、あまり流出させないほうが多少は裕福にもなられたのではないでしょうか」なんて言われてしまう。 ぼくは、IT産業の未来を憂慮しているのではない。それはベンチャービジネスにまかせよう。大学に代われ、私塾を開け、マスコラボレーションを特定化せよと言うわけでもない。それならとっくにやってきた。電子幕末の志士がほしいと言っているのでもないし、闇をつくれ、カブキ者よ出よ、悪場所よ栄えよというのでもない。いや、これはちょっとは言ってるかな、ハハハハ。 せめてアクセス数や従事率ではなく、そこに多様なキラーテクノロジーが自在に開花し、そこに痛快なコースウェアや深々と感じられる学習機会が生まれていってほしいのだ。時代がそろそろキーワード主義(小泉時代も終わったのだから)から、コンテキスト主義に移ってほしいのだ。それでは、もう一首、西行の歌を掲げて、今夜のウェブ電源を抜くことにする。 おのづから来る人あらば もろともに 眺めまほしき山桜かな---------------引用終わり----------------そこには、google,amazonなどの企業の動きが、細かく説明されているような気がする。皆さんは、どう思いますか?