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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

サウジアラビア時代その2



私がサウジアラビアで仕事をした時の日記(2)です

AIC(American International Corporation)はジェッダとメッカの丁度中間地点のバハラというところにある。昔の交通機関はらくだしかなかったから、ジェッダからのメッカ詣で(ハジ)の時の休憩地点と言うことになっていたようだ。
運転手は、正式には2名程度しかいない模様だった。私に付いてくれた、エジプト人は、なかなか忙しそうであった。親切で、英語もよく理解できるので、重宝であったが、会社の雑用と、私の仕事件ホテルへの行き帰りをすべてやりこなすのは無理のようであった。
ある日から、太っちょのフセイン君(スーダン人)に交代した。
巨体を運転席に滑り込ませるのがやっとの太った男だった。トーブという伝統的衣装を着ている。

ここでは、男は皆トーブを着、女は皆アバヤを着るのが普通だ。
トーブというのは、白い筒状の着物で、これには、腰を締めると言うことなど一切必要ない。
従って、いわゆるメタボになっても一行気にすることなく着ることが出来る。
中東の男性は、ビヤ樽形状の男が多いというのはここから来ているのかも知れない。
どれほど食って(飲むことはない)腹がはち切れても、ズボンが入る入らないで悩むことは必要ないのだ。むしろ砂漠生活が基本だったから、食べられるときに食べておくという習慣が付いたのかも知れない。
そのフセイン君は実に真面目な青年だった。やはり敬虔なムスリムで、昼の時間や、帰宅時間に私が少し遅れるときなどは、守衛のところで、小さな絨毯を借りて、廊下の隅っこでそれを敷き、メッカの方に向かって、「サラー」を始めるのだった。
座ったかと思うと、立ち、立ったかと思うと、額を地面にすりつけて祈っている。
私は、少しの間だけれど、彼が祈り終わるまで、時間を潰さなければいけなかった。

「サラー」は一日5回するわけで、朝一番の「サラー」によって起こされることになる。
  ※サラーについては後に述べる。
朝一番だと、4時半から5時(夏)には聞こえてくる。我々が通常聞く「サラー」というのは実は、「サラー」への誘いのことである。

その構成は次のようになっている。

・アラッーハ・アクバル、アラーッハ・アクバル(アラーは偉大なり)
・アラッーハ・アクバル、アラーッハ・アクバル

・アシュハドゥ・アンア・イラーハ・イッラッ・ラー(我は宣す、アラーのほかに神はなし)
・アシュハドゥ・アンア・イラーハ・イッラッ・ラー

・アシュハドゥ・アンア・モハマダン・ラッスール・ラー(我は宣すモハマドは神の使者なり)
・アシュハドゥ・アンア・モハマダン・ラッスール・ラー

・ハイヤ・アラル・サッラートゥ(いざ礼拝におもむけ)
・ハイヤ・アラル・サッラートゥ

・ハイヤ・アラル・ファラーフ(いざ栄えの道へおもむけ)
・ハイヤ・アラル・ファラーフ
 
・アッサラートゥ・ハイルン・ミナム・ナオム(礼拝は眠りよりよし):朝のみ
・アッサラートゥ・ハイルン・ミナム・ナオム

・アラッーハ・アクバル・アラッーハ・アクバル(アラーは偉大なり)

・ラー・イラーハ・イッラッ・ラー(アラーのほかに神はなし)

おおむね、2度同じ事を朗詠(詩吟に似た感じで、人によって、音調も違う)する。
このような誘いを受け、市民はぞろぞろとモスクへ向かうのである。
金曜日(聖なる日)のお昼のサラーとなると、日ごろ閑静だった道路は車であふれかえり、モスクは黒山の人となる。

さてフセイン君と車で帰っているとき、私は、覚え立てのサラーへの誘いを唱えだした。
すると、フセイン君は、車のラジオのスィッチを消して、じっと聞き入ってくれる。
時々間違っていると、何度も教えてくれる。(勿論英語はほとんどだめだから、片言での会話になる)

終わった後、今日のは良かったと褒めてくれるのである。
ホテルから、会社まで40-50kmだが、結構なんだかだと片言英語で、暇がつぶれるのだった。
片言の英語では心許なく思ったのか、フセイン君はある日、アラビックーイングリッシュ(Communicating in ARABIC)なる教科書(?)を買ってきてくれて、これを使ってくれと言う。
これは、以降ずいぶんと役に立った。

休み(金曜日)は午前中はサラーがあって付き合ってはもらえないけれど、午後は市内のあちこちを案内してくれた。
もっとも、そこら重を車で走るだけで、そんな暑い日中に誰も外に出ている人もなく、勿論店は閉まっている。
フセイン君におねがいして、北のラービグの町にドライブした。なにやら次期プロジェクトがここら当たりで始まるということで、物見遊山で出かけた。
ジェッダの北70-100kmだろうか、一直線に繋がる高速道路は、がらがらの状態で、時折道路脇には、丸焦げになったトラック(衝突でもしたのか)を2-3台見かけた。
Rahbigへ高速.JPG

ラービグは、ジェッダに比べるととても小さな町で、ほとんどアラムコの工場が締めており、勿論アラムコ内にはいることは許されなかった。

ジェッダを少し北に出た外れには、魚料理(ほとんど丸揚げ)を食べさせる場所があった。
ラービグからの帰りに、フセイン君と入ってみたが、フセイン君曰く、「日本人だと分かるとふっかけられるから、自分が交渉するという。
結局少しやすくはなったようで、フセイン君は得意げであった。
ジェッダでは滅多に食べることのない魚だからか、とてもおいしいと感じた。
ラービグ途中魚店.jpg


ジェッダはメッカに向かう巡礼が集まるハジシーズン以外はさほど混み合ってはいない。
又、真夏には実際の温度は50度を超えることもある、砂漠の国だ。
そんなジェッダから、東に100kmくらい行った場所(首都リアドへの途中の町)にタイフがある。
タイフは、丁度ジェッダからは地溝帯のずれで生じたのか高度が高くなっている。
そんな関係で、ジェッダの人の憩いの町となっているようだ。
フセイン君の貴重な休みを裂いてもらって、タイフも訪れた。ジェッダからタイフへ向かう道は、途中メッカを通過することになるが、外国人(ムスリムでない人)は回り道をしなければならない。

道路標識にもこれより先はムスリムオンリーと書かれ、ムスリムでない人はこっちと、回り道を指示している。フセイン君は、ムスリムだが、私は違うので、回り道の方を取ることになる。
ジェッダ近郊図


期待して訪れたタイフの町だったが、ジェッダと比べて多少涼しいものの、取り立てて、ここがというところはなかった。
しかし、金持ちの別荘のような建物は随所に見られた。
小金持ち(?)はこういった所に別荘を持つものなのだろうか。
タイフからの帰路、丁度夕方の「サラー」の時間になった。フセイン君は私に断って、近くのモールに入っていき、「サラー」をしてから戻ってきた。

フセイン君はジェッダの近郊に住んでいるという。
時々、ホテルの玄関で待っていても約束にお時間になかなかやってこない。
携帯電話が唯一の交信手段だから、掛けてみる。必ず答えは「Just a minute」である。
ほんの数分で来ることもあれば、2-30分待つこともある。まだ家にいるときでも、ホテルの直前でも、彼の答えは同じなのだ。英語が不得意というだけなのだろうか、それとも誤魔化しているのだろうか?
そこの所までは確認のしようがなかった。

一ヶ月に一度の国外脱出(VISAは1ヶ月間しか連続の滞在を認めていない)の時、近国(バーレーンとかカタールとか)に脱出するのだが、その帰りに、フセイン君と約束したことで相互の理解が一致しなくて、長い間待ったことがあった。
その時も彼は、私に聞いたら、Mr.○○は「アイオワ」(アラビア語で、Yesのこと)といったといって、自分の非を認めなかった。そんなこと言ったかなぁ?状態だった。

日ごろはおとなしいフセイン君であったが、給料の値上げ要求をされて、それには応じたものの、朝の遅刻が多くなり、又、警察とも多少のトラブルを起こしたとかで、問題になった。
そこで、もう少し信頼のおけるドライバーは居ないかと言うことになった。
折しも、AICに総務関係でアルバイトをしているハッサン君に白羽の矢が当たった。
彼は、大学で鉱山学を学ぶ優秀な学生であった。最初の運転手Abdu君から伝え聞いていたのか、私は時間に非常に厳しいというふれこみであった。「Discipline」である。
日本人には極めて当たり前の頃が、彼らには、厳格に移るらしい。とりあえず、私と面接をして、なかなかの好青年だというので、運転手(アルバイトのアルバイト)になってもらった。
ハッサン君はバハラ(AICの近く)に住んでいるため、私のホテル(ジェッダ)まではわざわざ迎えに来なければいけないと言うことになる。
別に気にする風でもなかったので、彼に送り迎えを頼むことになった。八月の初めからの交代だった。

この交代は私にとって非常にラッキーだった。彼は英語が良くできて、少しの間で、簡単に意志の疎通が図れる事になった。

前にも書いたが、サウジという国は、6ヶ月間のビジネスビザがあっても、毎月1回は国外に出なければならない。
私の場合は次のような日程となった。(特記の外はバーレーンへの出国である。)

   DATE 回数 特記
1)4月12日 到着
2)5月6日 第1回
3)6月4日 第2回
3-1)6月8日(UAE) 番外 LIONWELD
4)7月1日 第3回
5)7月28日 第4回
6)8月25日(カタール) 第5回 Site
7)9月22日(日本一時帰国) 第6回
10月8日再入国、以降は再びMultiple VISA
8)11月2日 第7回
9)12月1日 第8回
10)12月23日(カタール) 第9回 Site
11)1月19日 第10回
12)2月16日 第11回
3月13日 Temporary Iqama→受領3月16日
13)3月16日2回目入国から160日 第12回
14)3月23日(カタール) 第13回 Site
3月25日・VISA延長(Single 取得)
4月2日(6ヶ月のMulti-VISA Expire)→延長5月3日まで
4月24日 Single Visa延長申請→4月27日受領予定→再延長5月27日まで
15)5月25日(帰国):
5/25:Jeddah発16:30→Bahrain(18:35-22:55)→香港着(5/6:12:15)
5/26:香港発15:05→成田着20:20

以上のように1年余で出張を含めなんと14回も国外脱出しなければならなかった。
その内6月3日にはサッカーのワールドカップがバーレーンであり、運良くそれに便乗しての国外脱出となった。
バーレーンの国旗は、新撰組の隊旗に似ており、違うところは地が青でなく赤であることだった。
日本からは、この日のためにツアーも来ているらしく、
会場にはいると熱気がむんむんとしていて、応援は立ったままの状態であった。
例の、「オレーオレーオレー」の大合唱となった(ならされた)

ハーフタイムだけ、着席を許される有様で、ハーフタイムは、選手のためではなく応援団のためにあるのだと言うことが分かった。

6月8日のUAE(ドバイ)出張はグレーチング(床板)を外注している会社への進捗確認と督促のためAICの担当フィリピン人Totiと同伴の出張だった。
よもや、この後ドバイに滞在することになろうとはその時は全く分からなかった。
2泊することになったが、1日目は、リゾート地のHilton Dubai Jumeirahで高級すぎて気が引け、2日目は別な約半額のDulf Hotelに代わった。

5回、9回、13回は現場である、カタールのラスラファンへ出ることになった。
最初の訪問時は、現場進捗状況が悪く、AICの人間を伴うのを避けた。工場で督促しながら、現場は一向に進んでいないと分かると、以降の士気に関わるからだ。
最後の13回に行くときは、AIC側も工場が遅れているのが分かっているだけに、現場でどのように叱責されるのかと戦々恐々であった。

9月にはほぼ6ヶ月ぶりに2週間の日本一時帰国となった。
このときは、更なる6ヶ月のVISA取得が目的で、2回ほど会社に出る以外は、日本での骨休めとなった。
その他の一般出国は、すべてバーレーンで首都マナーマのホテルだった。バーレーンは非常に小さな国で、北部に町が広がっている以外南部は、中東で最初にオイルが出たというウエル(井戸)や、軍事施設があるだけだった。
マナーマの町は、その気になれば歩いても端から端までいけるほど小さかった。近々見本市があるためか、ツィンの背の高いビルを建設中だった。ほぼ1ヶ月おきにマナーマを訪れる度に、そのビルの進捗が分かるという案配だった。
ホテルは2流のGulf Hotel、Gulf gate Hotel, Delmon Hotel, TAJ palac hotelの4つのホテルを経験したが、いずれも似たようなものだったし、ただそこに居るだけのものであるから、どうでもいい感じだった。

この月1回の国外脱出の利点は、お酒が飲めることと、豚肉(豚カツ)が食べられることだった。
人間はおかしなもので、だめといわれれば欲しくなるのが心情である。いずれにせよ、外地での豚カツなど、あまり旨くはないけれど、禁止されているものが食べられるという点では、多少の味付けになった感じだ。
いつものコースは、ジェッダを昼に出て、ダンマンに飛び、そこから、会社の用意してくれた車でマナーマに向かうのである。途中に、サウジの国の援助で作られたコーズウェイがあり、その真ん中が国境となっている。両国の国境検問所には、殆ど同じ設計の高いタワーが建っていて最上階はレストランになっているようだ。ただ、そこを利用する人は見たことがない。

脱出の日が木曜日に重なると、サウジ中の人がマナーマに行くのではないかと思うほどの込みようになる。通常は夕方近くにバーレーンに入り、時には同行した仲間と夕食に行くことになる。ひとりで出るときは、ホテル近くの日本食レストランで適当に食べ、翌日昼頃に迎えに来る車を待つ間、マナーマの海岸散歩や、街中の見物をするのが常だった。

さて、ハッサン君であるが、電話で予定の変更を伝えられて重宝したのは、カタールに出張したときだった。帰りは、ドーハからダンマン(ここまでカタール・エア)を経由、ジェッダに向かうことになっていたところ、急遽、ドーハからメディナに変更になった。メディナはモハマドが居た聖地であるが、トランジットは可能のようだった。ところが、案内が悪く、そのまま空港外に導かれてしまった。
私はジェッダに帰りたいのだというと、タクシーがあるよと言われた。
冗談ではない、トランジットだというと、出発ロビーを案内され、何とかジェッダに着くことが出来た。このときも、運転手がフセイン君であったら、どうしようもなくジェッダからタクシーになるところだったろうが、ハッサン君には電話で事情を説明できたので、迎えに来てもらえた。
カタールは今天然ガスの産出で大いに湧き上がっている。アラブの主導国としてのサウジとはあまりうまくいってないのか、元々バーレーンがそうであったように、今は、カタールの鼻息が荒いようである。カタール出国(サウジに帰る)時カタールのイミグレーションの係官が、スタンプを押す際に、「何であんなクレージーな国に行くのだ?」と冗談で言っていた。
こちらも、「仕事だから仕方ないよ。俺も行きたくなんかないよ」と答えた。

ジェッダで、最初に投宿したのは、サンズホテル(Sands Hotel)で砂のホテルの意味だった。
ここは、王宮の近くで、閑静な住宅街に近い場所だった。近くにはBMWのショウウィンドウもあり、超高級車が陳列されていたり、ブランド外のショップでは世界のあらゆるブランドがそろっていた。
近くを通る、タヘリア(アラビア語で水を意味する)通りはジェッダでもっとも美しい通りといわれている。夕方の5時頃までは閑散としているが、8時過ぎから夜中まで、買い物客などで大賑わいとなる。
夕食は、近くのラ・ヴィラというイタリアン・レストランでスパゲティを食べたり、時には、カレーを食べたりである。更にフィリピン人らが行くクイジーンがもっぱらの夕食の場所となった。比較的安く、サラダ・バー付きで29SR程度だ。

又、ホテルのすぐ近くには、ダニューブという大きなマーケットがあり、日用品は大概手に入れることが出来た。
といっても、賄いをするわけではないから、水や、パンなどを買うのが主になったのだけれど。
ホテルの中庭には綺麗なプールがあり、毎金曜日にはプールサイドで過ごし、またからだが熱くなるとプールに飛び込むというような生活を送った。

最初の数週間は、右も左も分からなかったが、休みにはホテルを起点として、東西南北に片道3-5km位ずつ歩いて回った。暑いさなかに歩いている酔狂なものはほとんどおらず、流しのタクシーが何度も、クラクションを鳴らして、乗らないかと誘う。

一寸場末を歩いていて、のどが渇いたので、水を売っている店に入った。ボトルを一本買おうとしたら、東洋人は珍しいようで、最初、コリアか?と聞き、違うというと、チャイニーズかという、いいやというと果てはフィリピーノかとまで言い出した。
そこで、ヤバーニ(日本人)というと、急に愛想が良くなって、お金はいらないという。
なんだか変な気持ちになったが、ありがたく厚意を受けることにした。
ここでも、車を初め、日本の先人が残した偉業を感じないではいられなかった。

そんな快適な生活を送っていたが、会社の人が泊まりに来て、部屋の天井にどうやらアスベストを使用していることに気づいた。危険であるからすぐに引っ越すようにといわれた、約8ヶ月も経っていたが、新しいホテル(Red sea palace Hotel)に移ることになった。
そこは、Sands Hotelより高級であったが、使えるようなプールが無いのが残念だった。
ただ、繁華街に近く、更に会社に近いことが強みだった。
このときもハッサンの機転で、ホテルレートに朝食付としてくれたことだ。
他の者ではこうはいかないだろうし、毎日、近くのフィリピンレストランに通うことになったのかも知れない。又、この朝食がバイキングとはいえ、流石5つ星で、毎日の栄養のほとんどをこの朝食に頼っていたと言ってもいいくらいだった。

ハッサン君は若いだけに、朝寝坊をして、ホテルのロビーで、なかなか来ないから電話すると、申し訳ない、今起きた、すぐ行くと言うことが何回かあった。
彼は又歴史にも興味があるのか、初代アブドラ・アジーズがここでオスマントルコを追い出したのだと言ったことまで教えてくれた。

また、別のプロジェクトで、一時期同乗したインド人(タミール語を喋る)と同室の品質保証のフィリピン人の知恵を寄せ集めて、日本語―英語―アラビア語―タガログ語―タミール語の辞書を作成した。
それにつけても、基本となる言葉は英語である。誰一人母国語が英語ではないのに、何故かコミニュケーションが取れている不思議を感じた。

ハッサン君も慣れてくると、休みにピクニックに行こうと言うことになった。場所は、近くだが、あの、オサマビンラディンの農場の中だという(今はほとんど使われていない)。後から別のプロジェクトで参加した日本人二人を加え、4人でピクニックをしたが、ハッサン君が弁当を作ってきてくれた。

AICは今や大会社であるが、そこに働く労働者は、フィリピン、パキスタン、インド、バングラなどの東南アジアの人間がほとんどだ。 高い地位を占めているのはアラブ人だが、サウジ人は殆ど居ない(ハッサン君は生粋のサウジアラビア人で、親父はベドウィンだと言っていた)
最近かどうか、サウジの社会を支えているのはこういった第三国人である事を憂えて、労働法の改正をし、サウジアラビア人を何%か(数字は定かでない)雇用しなければならないことになっているという。その点でも、ハッサン君は重宝されているわけだが、中には、朝から新聞ばかりを読んで一日が終わる(ハッサンはこれをニュースペーパーマント呼んでいた)者もいた。
当然彼らの給料は、第三国人よりは良いらしい。もっとひどいケースでは、名前だけ借りて、給料日にだけ現れ給料をもらっていくサウジ人もいるという。
働かなくてもオイルマネーの恩恵を受け、税金がないのだから、インセンティブが働く余地がないのだろう。
これも仮定の話だが、この国に、オイルが出なかったら、昔のようにらくだに乗って、海岸縁では魚を捕って、細々と暮らしているだけだろう。

私が担当したプロジェクトに実質担当者のToti君もフィリピン人で、昔フィリピンに駐在していたことがあっただけに懐かしかった。彼はしかしルソン本島のバタンガスの出身だった。
私と同室のプリモ君(あまり年は違わないようだった)もルソンの出身だったようだ。
慰安と、親睦をかねて、ジェッダ北部のプライベートビーチ(そこは公共だった)に海水浴に出かけた。西欧人や、我々東洋人は普通の海水浴姿であるが、中に数人いたアラブ系の人たちは、黒い服を着たまま、子供を海水につけていたのが印象的だった。

ハッサンはスポーツマンで、会社の仲間とサッカーをやっていた。これに参加しないかと誘ってくれて、何度か参加させてもらった。勿論還暦の者など居はしない。私くらいになると、サウジ人は、杖を突くか、車いすだと冗談に言っていたが、その私が練習試合で、1ゴール、2アシストを決めたときには、みんな驚嘆の声を上げていたのは痛快だった。

また、ハッサン君の友人の結婚式があり、それにも招かれた。別段祝儀は要らないと言われたが多少包んだ。大きな結婚式場ではあったが、女性は全く居ない。というか、女性は裏口の方からはいるようになっていて、女性は花嫁、男性は花婿とだけしか顔を合わさないシステムになっている。
男の方での披露宴(といっても勝手に皆食べるだけ)が終わると、女性のそれが始まってという風になっているらしく、女性は、裏口までアバヤ(黒い服)を来て親戚に送られ、入場し、終われば又迎えに来ると言うことらしい。従って、女性は見なかった。

結婚式に象徴されるわけではないが、彼らは結婚式当日まで、写真はおろか、本物の顔を見ることがないという。江戸時代の家と家の結婚式のようなものだ。従って、結婚後3ヶ月での離婚率は、結構高いと聞いた。このときも男に有利に出来ているという。
ハッサンなども、自分の好みのタイプの女性を母親によくすり込んでおかないと大変だといっている。(親が相手を決めるため)・・・でも今頃の若者は、携帯電話や、ブルートゥースなどを多用して、そこそこ旨くやっているとも聞いた。
そんなこともあってか、この国には、ホモが多い、ショッピングモールで、誰はばかることなく男同士が手をつないでいる光景は良く眼にする。
日本人は、小柄で、髭も生えていないので、良くその標的にされることがあると、まことしやかに言われることがある。そのせいだけでもないが、私も髭を蓄えることにした。

この国のホウリーデイ(聖日)は金曜日であることは前に述べたが、カレンダーも当然のことながら土曜日から始まって、金曜日が右端に来ることになっている。(ハジ暦)
グレゴリー暦を使っている我々には、日本との整合性を取るのに若干のとまどいがあった。

サウジに来る前は、テロのことをずいぶん気にしたが(ましてジェッダはオサマ・ビン・ラディンの育ったところだし)ほとんどその懸念はなかった。
遠く東部のアルコバールの、サウジアラムコが襲撃されたという話しは耳にしたし、ジェッダでもなにやらきな臭い話しがあったようだが、全くと言っていいほど、緊張感はなかった

<書き残したことはまだあるようですが、又気がついたら追記することにします。>




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