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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

幼少時代

1944年(申年)生まれました。

2001年 12月 21日 (金)記載を始める。

生まれたのは、
広島県呉市吉浦本町五丁目、小さい海軍官舎だと聞いた。

親父の乾坤一擲九番目の男だった。
橋幸夫、坂本九、古くは源九郎義経と同じ九番目である。

親父は元海軍大佐:でも文官、戦艦大和の速射砲を設計していた、機械屋である。当時の家へは、その後一人で訪れたが、坂道の中間程度、瀬戸内海が見える、閑散とした町だった。
それ以外の思い出は殆ど残っていない。

私の世話をよくしてくれたのは五姉だったようだ。
彼女の背中で、ちゃんちゃんこにくるまった赤ん坊の、自分の写真を見て、なんて可愛い奴だと思ったものだった。
栴檀は双葉より芳しいか?!

色々カバーの選択や、写真?の挿入などがあるようだが、時々替えたりしてみたい。
ホームページ(ブログ)を作るのは初めてだから、色々と考えてみた。
他の人のホームページは、ちゃんと勉強して作っているのだろう、魅力的なのが多い。
私は、たまたまここでHPの作り方を教わった。飾ることが本意ではない、中身が大切だと思っている。又、飾るためにマニュアルを読むことは、嫌いだ。
赤ん坊の頃の記憶はほとんど無い。ただ、少し病弱であったようだ。やがて吉浦を離れて、大阪に出て行くことになる。

私が1才の時、親父が退役して、玉音放送に打ちひしがれ、本当に勝つと思っていたのが、ころりと負けたわけだ。大本営発表は、国民にまだまだの気持ちを植え付けようと必死だった。太平洋出先が落ち、沖縄が焦土となり、ついに広島、長崎に原爆が落とされるにいたって、降伏を余儀なくされた。それでも敢えて敗戦と言わず終戦というあたりは何をかいわんやであった。

その時から暫く、親父は、もぬけの殻であったようだ。人生に希望をなくし、大勢の子供を抱え、それまでの生活も決して裕福ではなかった。それでも、子供が産まれるたびに昇給があって、何とか糊口を凌いだと、聞いている。

そんなことはつゆ知らず育ち、3才になる頃官舎を追われるように、私たちは、上阪した。
落ち着いた先は、十三だった。

赤い灯、青い灯の真っ直中、住み家としてのそれは劣悪であった。軍人を辞めて一般人になったのだから、食べていくのがさらに大変になったようだ。
親父は必死に就職先を探したのだろう。
箕面の、○○金属(ダイハツの子会社)で自動車のマフラーをつくっている会社だったようだが、そこに奉職することとなった。
油圧機器設計を得意とする親父は、そこで、一所懸命働いた、結果、会社は大きくなり、自社ビルが出来るまでになった。父は仕事の虫であった。家族で丸いちゃぶ台(丸いからちゃぶ台なのか?)をかこんで食事をしている時も、自分一人さっさと食事を終えると、早速A4のトレーシングペーパーを広げ、周りの迷惑顧みず三角定規とコンパス、鉛筆を握って、仕事を始めるのだった。

聞いたところによる、従来の排気管を曲げるには、管の中に砂を詰めて熱してから、ベンダーにかけ、曲げるのが常だったそうだ。砂を入れないと扁平になったり、管にしわが寄るなどの弊害があったようだ。父はそれを砂無しで、しわなく曲げる機械を造り上げたと聞いた。
兄弟中が、その特許を持って、独立することを勧めたが、親父にはその気はなく、口癖のように「会社に儲けさせて、その上がりの分け前を貰うのが仕事で、会社を儲けさせられなければ、文句を言ってはならない」であった。まさにサラリーマンの鏡みたいなものだったようだ。
以降自分の心の底には、そのことが染みついている。

十三(藤田まことの、「十三の姉ちゃん」の歌で知られる)にやってきた私は、その喧噪に少し興奮気味だったようだ。
呉の田舎しかしか知らない、私は、世の中にこんなゴミゴミしたところがあるのかと思った。

しかし、そこでの思い出は、悪ガキ1人と2人で、綿を作る工場の倉庫に忍び込みそこに積まれた綿をちぎり取っては小さく丸めて、泥水に投げ込み、見つかってこっぴどく叱られたことだ。
それと昭和25年のジェーン台風だ。このすさまじい台風は大阪湾を直撃し、当然我が家(借家)をも襲った。木製の雨戸に釘を打ち付け、台風の目(空が全く晴天のように青空に戻る)とやらも見、その後又逆方向に風が吹き荒れるのを実感し、もう家全部が飛ばされるのではないかと大変不安になった。それまで、そんな自然災害にあったこともなかったので、全く生きた心地がしなかったのを覚えている。

十三に住んだのはほんの短い期間であり、幼い時であったので、もはやその場所を特定することすら出来ない。

程なく、我々は、茨田諸口町(現鶴見区)に引っ越すことになった。

申



私が十三を離れ移り住んだのは、大阪府北河内郡茨田町諸口だった。東に生駒山を仰ぐ自然溢れる場所だった。
そこで、人間として息づき始めた幼き頃を過ごした。
丁度小学校を卒業するまで、緑豊かなその町で過ごした。

幼なじみにK.Iちゃん、その妹のR.Iちゃん、姉のN.Iさん、高知出身の○.T君・・・これらの人と共に過ごした場所は、木造の古びた2階建ての社宅だった。

そこの2階には共用の倉庫があり、中に入ると、ゆうに2mは飛ぶという「のみ」が跋扈していた。入ると、久しぶりの人の血(体温)を感じて、それらが一斉に飛びかかってきて、出たときには数カ所赤く痛がゆかった。

幼稚園に行けというのが嫌で、姉に抱きかかえられて園の門前まで連れて行かれたがそのまま泣いて帰った記憶がある。

こうして、結局幼稚園には行っていない(今ではとても考えられない。幼稚園に行かなくても周りがみんな仲良く遊んでいたし、社交性も培われた。)

小学校は、社宅から国道を挟んで丁度真南の方角にあり、通常通学するための道路は東西2つのルートがあった。
東側の通学路にはちょくちょく絡んでくるお姉ちゃん(高校生だったか?)がいて、怖かったし、西側の通学路は、芋焼酎の工場があって、四六時中臭い煙を煙突からもくもくと排出していたので通るのが嫌だった。(今はこんなに芋焼酎が好きなのに・・・)
緊急的な真ん中の道は田圃を突ききることで、正規の道は当然なく、田圃のあぜ道を通ると、当然のように百姓おっさんに怒こられたものだ。

仕方なしに比較的に近い上、嫌なことが起こる可能性の低い東側をメインの通学路としていた。
小学校は、これも木造平屋でコの字型をして開かれた形の南側に校門があった。ここから入ることになっている。(現在は3階建てのビルになっていて原形を留めない)

校門を入ると、左側が用務員室、右側には小さな講堂が建っていた。
講堂の前には、薪を背に歩きながら読書をしている、二宮尊徳の銅像が我々を見下ろしていた。

校歌は、
「明日仰ぐや、生駒山、夕べ何を徳庵堤、茨田南、茨田南、偉くなります僕たちは、豊かに生きます私たち・・・」
因みに、二番は、
「明日仰ぐや、生駒山、夕べ何を徳庵堤、茨田南、茨田南、強く生きます僕たちは、優しく生きます私たち・・・」
という内容だった。
このように、昔は、男には偉く、強くになることを勧め、女には豊かに、優しくなることを勧めていた。
今時この様な歌を歌っていると、テレビによく出る、エキセントリックなおばさん先生に噛みつかれそうなほど、男女の区別は歴然としていた。

校舎から社宅の反対側(南)へは国鉄(現JR)の「徳庵」駅が近く、野崎参りの人が良く通った徳庵堤がそこにあった。

「野崎詣りはーーー、屋形船で参いろ、どこを向いても菜の花盛ぁり、粋ぃなぁ姿に牒ぅちょが留まぁる・・・」
の野崎詣りで有名なコースに沿ったところにあった。

小学校での私は、神童といわれるくらいに良く出来、1学期の学級委員(級長)は決まって私がやった。先生の信頼も厚く、同級生である学童の答案の採点を時々頼まれることもあった。
しかし運動はと言えば、徒競走では100mも80m障害も3等賞(今の銅メダル)以上で走ることは出来なかった。
そんな中、同級生にK.Oという目のくりくりっとした可愛い子がいて、ほのかな恋慕の気持ちを持ったものだが、それは他愛のないものだった。

学校へ行くには、家を出て社宅の広い敷地の門を出るとすぐ、国道を渡らなければならず危険な場所にあった。
当時は通行する車も少なく、横断歩道も、信号も付けられてはいなかった。
そんな国道では、「ダイハツ」や「くろがね」といった3輪自動車が行き交い、それらが通った直後に国道へ飛び出し、その排気ガスを吸い「ダイハツが良い、いや、くろがねのほうが良い匂いだ」と言い合ったものである。

その国道で、同級生の女児大西さんが交通事故で亡くなったのは、幼心に大変ショックだったことを覚えている。

学校以外では、勉強した記憶が無く、ただ和算の魅力に取り付かれた記憶はある。即ちXやYを使わず答えを出す「和差算」「流水算」「鶴亀算」・・・等々である。
これは、教科書ではなく、副読本のような薄っぺらな冊子だったと思う。

また、日頃は殿様蛙を捕まえ、道路に叩きつけ、死ぬか、気絶したところを、足のつま先から、皮を剥ぎ取り真っ白な向き身なったそれを紐につけ、近くの川で、ザリガニをたらい一杯に採って持ち帰り、お袋に茹でてもらい、食べたものだった。
面白いように連れ?すぐにたらい一杯になるほどだった。

更に山奥に入っては、土筆を取り、両方のズボンのポケットに押し込んで帰って、お袋から、灰汁が取れぬと、こぼされたものである。

茨田町では、更に色々なことをした。
ある時は、門の前に小さな社があり、その庭に、とてつもなく大きな杉の木(社宅だったのでとても敷地が広かった)があって、それに昇り、地上10m程度の所まで機材(木ぎれ)を運び込んで、自分だけのお城をこしらえた。誰も知る由もなく鳥たちだけが知っている城だった。

私の小学校時代は、勿論TVは家庭にはなく、ごく限られたお店においてあるだけだった。私の場合は、近くのバス停まで約2km程度歩いて行った店でやっと白黒のTVを見ることが出来た。
当時は力道山が大活躍で、空手チョップが出てくると、みんなで歓声を上げた。
空手チョップが出る前は決まって守勢に立つものだから、鞍馬天狗の登場を待つような気持ちで、総会だった。登場を待つような気持ちで、爽快だった。
巨漢オルテガ、天をつくプリモ・カルネラ、フライングキックのシャープ兄弟、・・・
彼らをみて必死にTVに食い入り手に汗を握った。今の「ファイアー」や「気合いだーーー!」など目ではなかった。
ましてや小川のような「ハッスル、ハッスル!」では気が抜けてしまう。

晩年のおやじはプロレスが好きで、TVに見入り体を動かしながら一緒にファイトするので血圧が上がってしまうのではないかと心配になり,側で、落ち着くように言ったものだった。

私は、何時もプロレスの試合が終わるまで店にいて見て帰っては、帰りが遅いと、叱られた。

ある日の課外授業で、肥溜めに落ちた女の子がいた。先生は文字通り必死に助け上げたが、その時相当に運が付いたことだろうと思い、今何処にいるのか知りたいと思ったものだ。
さらに肥溜めでの話では、当時はすべてが有機肥料で皆人糞に頼っていたから、至る所にそれはあった。
そのうちの一つが東側の通学路のそばにあり、何とその周辺に、50円札(当時)が数枚散らばっているではないか。
鷲づかむ様に拾い集め、当然警察には届けなかった。
当時の小学生にとって50円札数枚は大金だった。当時から公徳心が掛けていたのかも知れない。そのまま使ってしまった。(これっていけないことですね)

担任の先生は、1~2年が女性で真田幸子先生、3年は男性の平池星先生、4,5,6年はとても立派な、沢田善武先生だった。

卒業以来、鶴見で開かれた同窓会に1回行ったきりで、その後、殆ど、小学校はもとよりあらゆる同窓会なるものを拒否続けているのが今日も続いている。(この間、沢田先生が亡くなられて、追悼するとのことで、寺の住職を継いだ同級生から誘いがあり出かけた。)

沢田先生が、体育の指導で、1.5mくらいの高さの教台で、ラジオ体操の指導をされていた時のこと、右に足を開く際に、足を踏み外し、その教台から、落下し、担架で運ばれたことがあった。
そんな時も先生は、落ち着いて、みんなに「頑張って練習しなさい」と、言いながら抱きかかえられるように退場された。
何かにつけて熱心な良い先生で、今のような虐めが起こることなど全く程遠くみんなの面倒を良く見てくださった。

一人Mさんというてんかん持ちの子がいたが、先生はその子が発作を起こすと、すぐに木を口に噛ませ、舌をかまないように一生懸命介抱されていた。
子供心にも、凄いなぁと思ったものだった。

子供は教師の、さらに親や、大人の背中を見て育つと言うが、誠に鏡のような、良い先生だった。
晩年は、日教組に入られたか、所謂、体制に迎合されることなく(出世の道を自ら捨て)自分に忠実に生きられたのだと聞いている。

先生の家は、放出(はなてん)駅の近くにあり、私の家に比べるべくも無く門構えもしっかりしていて、旧家であり、一種の威厳さえ感じられた。
先生の家に喚ばれたときは、身も引き締まる思いだった。

今の子に、どうして「虐め」があるのだろう。
自分のことしか省みない社会風潮、政治家だって馬鹿だが、それを選ぶ、国民も馬鹿だ。私利私欲を離れ、身を挺して国を憂える人間が何人にいるか。

私は、その時には思いもつかなかったが、今の私がそれを言わしめている。

私は、小学校時代は神童と言われるような、優等生であり、且つ健康優良児でもあった。
それに書道を良くし「心画院」他の賞を総なめしていった。
片町線(田園都市線)の徳庵の向こうに大楠公で有名な楠木正成がゆかりの四条畷があるが、そこにも書道の大会で良く行った。
小学校時代の私には、そこが世界の東の果てだと感じられた。
小学校の身の上では、とても遠く感じられた。

校庭の「二宮尊徳」が薪を背負い勉学しながら歩く像の傍には生きた化石メタセコイアが植樹されていた。

私たちは、クラスのみんなで、ウサギを飼った、校庭の片隅で、それはそれは大切に飼い、餌を与え、水をヤリした。ところがある朝、無惨にもウサギの死骸を見ることになった。
イタチである。何処からとなく忍び込んだ、イタチが、ウサギを全滅させたのだ。
先生も、私たちも落胆した。イタチを憎んだ、しかし私たちの飼い方も不完全であることを悟った。そして、丁寧に墓を作り埋葬した。
小学校には、語り尽くせない思い出と、きらりと光る思い出がある。

その校歌は、前にも出したが、
「明日仰ぐや、生駒山、夕べ何を徳庵堤、茨田南、茨田南、強く生きます僕たちは、豊かに生きます私たち」
であった。大阪側から見た時の生駒山は、駱駝の背に少し似た形で右が少し高く、今日も変わっていない。ただ、人の心だけが少しずつ変わっていくのだろう。

私の小学校時代は、平々凡々の中に終わったようだ。又思いだしたら修正加筆するかも知れない。
小学校6年を後数ヶ月残した段階で、親父殿は、千里山に居を構えることになった。
芦屋に次ぐと言われる環境の良い場所である。(芦屋が100万ドルの夜景なら、10万ドルの夜景かな?)
貧乏生活が習慣になっていた私は目と耳を疑ったが本当らしい。
でも建てた家は安普請で、庭も小さかった。隣の社長の家の庭はゆうに2~3倍あった。でもそんな贅沢は言っていられない、親父殿が最初で、最後に建てた家だ。

進学時期と引越時期がずれたため、私は茨田町諸口から中学校のある千里山へ通わなければならない時期があった。
みんな寂しがってくれたが、丁度、学校・学年の切りも良いのと、千里山という所が気に入ってしまった。

親父は、少し反骨者で、玉音放送以来一時腑抜けになっていたようだが、持ち前の精神力で、それを乗り切り技術屋としてダイハツの子会社である○○金属に入社、エキゾーストパイプのベンダー(曲げ機械)の設計をしていた。親父のために社屋が広くなり隆盛を極めたが、我々が独立を勧め、会社を興そうとしたが、親父は一言「会社を儲けさせて、その上がりを貰うのが仕事だ」と取り合わなかった。(前にも書いたが)
もしそうなっていれば、私も経済学部か商学部又は、経営学部に進み、2代目社長か、専務かになって、少し楽な暮らしが出来ていたのでは・・・。少なくとも宮仕えの苦しみからは解放されていたのにと夢のようなことを考えることがある。
しかし親父殿はそれを許さず、技術屋の道を突き進み油圧機器の神様といわれるほどになっていった。
それだけに、私が理科系の道を歩み、国立大学(お金が掛からなかった)に合格したときの喜びようは、尋常なものではなかった。それ故に起こる兄との確執は、その後話していきたい。

ともかくも千里山に小さな家が出来、庭もある、歴とした千里山の住人になったのである。夜には、芦屋の100万ドルとはいかないが10万ドルぐらいの夜景が見られるようになった。





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