カテゴリ:本日の主張
ここまで読んで、7割の人は面倒くさくなり、2割5分の人は意外に感じ、5分の人はこの先が読めたことでしょう。
これから先は当分、意外に感じた2割5分の人たち向けのブログとなりますので、7割5分の方々はココでさようなら(笑) 嘘。もうちょい付き合って下さい。 話は民主主義の方に飛んでしまいました。 けれどこれは避けて通れないことなので、ご勘弁を。 さて、日本型民主主義を仮定するにあたって、日本人は自らの自覚に欠落があることを自覚しなければなりません。 ○民主主義という完成された何かがあるように勘違いしていること。 ○民主主義とは素晴らしいものであるかのように勘違いしていること。 ○勘違いしたまま、自らが民主主義を理解しているかのように勘違いしていること。 こうなってしまったのは、学校教育の欠陥でもあるでしょう。 けれどここでさらに教育論に飛ぶわけにも行きませんので、他人のせいにするのではなく、自らが自覚して行くことから始めましょう。 さて、もう一度書きます。 民主主義国家とは、 国家の重大な決定は国民の意志により為され、国家権力は国民の負託により存在し、国民の生命と財産の保全は国家権力によって保障され、国民の権利が国家によって制限されることが限りなく少なく、憲法は国民の意思によって定められ、国家権力がこれに違反することが絶対になく、国家権力が憲法に反した場合は国民が国家権力を排除する権利を実質的に有する ような国家です。 これは民主主義の概念というより、社会契約(※1)の概念です。 それは、権力者は人民との契約によって権力を持つという考え方です。 この考え方が、以降の欧米社会を変えました。 この頃は、ちょうどイギリスなどで国王の力が強くなっていた時期でもあります。 けれど、一方で清教徒革命などという市民革命の勝利があった後でもあり、市民の意志というものを国王たりとも無視できなくなっていたのです。 そこで、王が王である理屈として、市民が王に従うものだということを正当化する必要がありました。 そのために生まれたのが教科書にも出て来る「王権神授説」なのです。 神が王と認めた存在に対しては、つべこべ文句を言わずに従えと。 が、これの理屈に牙をむいたのが、プロテスタント(抵抗者)でした。 法王ですら否定する人たちです。 国王なんて認めるわけがない。 彼らプロテスタントの理屈はこうです。 王だろうが貴族だろうが騎士だろうが商人だろうが農家だろうが、法王ですら、所詮最初は土塊から神が創られた造物。 ↓ 神というとてつもなく大きな存在から見れば、目くそ鼻くそで、同じはずだ。 ↓ だから、国王なんてものを神が選ぶはずがない。 ↓ 皆同じであるが、国をまとめるための権力者は必要だ。だがそれは、皆に選ばれた人であるべきだ。 ↓ 権力者は人民との契約によって権力を持つものだ。 この考え方が18世紀のフランス革命やアメリカ独立の論理的根拠として浸透して行きました。 そして、後に民主主義の発明を生み、それから平等や人権といった思想に発展するのです。 つまり、民主主義にしても平等・人権といった考え方にしても、はじめに神ありき。 神の思し召しによって平等であり、ひいてはすべての人が同等に人権を持つのです。 長々と関係ないようなことを書きましたが、何が言いたいかというと、民主主義というのは極めてキリスト教(プロテスタント)的理念であり、それを理解しないままに「ヘタな輸入」をすると、その社会はかえって混乱してしまうのです。 まさに今、というより戦後ずっとですが・・・日本はそういう混乱状態にあります。 これを平常に戻すには、日本人の多くがプロテスタントに改宗するか、日本型民主主義を創り上げて行くしかありません。 改宗論はあまりに非現実的ですし、私自身も無理なので(笑)、やはり予定どおり後者の方を考えてみましょう。 (※1)社会契約説 本来なら「ジョン・ロックが17世紀に唱えた社会契約説」とかいう出典を出すべきところですが、そういう憶えなくても良いことは、このブログでは無視して行きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.02.07 17:21:19
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