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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

ドブネズミと捨て猫とノラ犬 6



 信号が青に変わった。歩道の横の道路に止まっていたクラウンが動き出し、カローラが続く。
 俺は排気ガスの臭いを嗅ぎながら空を見上げた。
 青い。とても青い、青。人生賭けた大勝負に相応しい、空の色だった。太陽も雲に隠されていない。
 セミの合唱が喧しかった。額が汗で濡れ、暑苦しかった。
 俺は額を手で拭いながら、横断歩道を渡ってすぐ現れた坂の前で立ち止まった。坂を登っていくと、奈呼が通っている高校がある筈だ。
「行くか」
 俺は呟いて、坂に一歩踏み出した。体全体に圧力が容赦なくかかった。足が重い。空気が粘っている感じがした。体に絡みついて来る。疲労が腰に来る。此処は街中だ。登山でもしている気分になった。
 俺はジーパンの尻ポケットを触った。お守りのバタフライナイフが入っている。バカガキ時代、いつも持ち歩いていた物。ママの形見でもある。
 ポケット越しに撫でていると、多少、気持ちを紛らせる事が出来た。
 坂の頂上付近に行くと、校舎が見え始めた。灰色の塀に囲まれている。空気も坂の下とは全然違う。それだけで普通では無いと思った。例えば、普通の高校がコーヒー一杯三百円の喫茶店とする。この高校は、千五百円だ。周囲にある家まで少し違う。門構えからして、お高くとまっている。ガキの頃、ママと一緒に住んでいた路地裏とは正反対だ。バラとか胡蝶蘭とか花の匂いが漂って来そうだ。
 俺は塀に沿って、門を探した。裏門もあるが、奈呼が出て来るとしたら表門だろう。根拠は無いがそう思える。
 塀に沿って歩いていると、俺と同じく、この場所に似つかわしくない男が居た。くそ暑いのに、緑色のアウター姿だ。ボアつきフードを被ってバイクに跨り、校門の方を見つめている。どこからどう見ても怪しすぎる。
 誰か待っているのか。休憩でもしていたのか。分からないが、ともかく気持ち悪さが胸の奥から湧き上がった。不快感は、ママが死んだ時に感じた最低最悪への予感に変わった。
 俺は頭を振り、嫌な予感を掻き消した。今見た不審者の所為では無いだろう。きっと奈呼に近づいているからだ。だからこんな予感が生まれるのだ。気の所為だ。
 俺の視線に気づいたのか、男はバイクのエンジンをふかし去って行った。
 学校から巨大なベルの音が響いて、体が少し跳ねそうになった。見上げると、校舎の最上階に、大人三人でようやく持ち上げられそうな金色のベルが前後に揺れているのが見えた。いかにも清潔で生真面目な音に、息が詰まった。そうはいっても逃げられない。奈呼と会ったからといっても、具体的に何を言って良いのか考えていない。でも、そんな事はどうでも良かった。今、俺がするべきなのは、奈呼と会う事だ。
 場違いな男が金持ち専用のお嬢様学校の前をうろついているのは不審がられる。周囲に人が居ないのを確かめ、電柱の影に隠れた。まるでストーカーだなと、自虐的な笑い声が漏れる。
「ここまで来て逃げたら、男じゃねぇって空子に嫌われそうだな」
 呟いたのと同時に、唾液を飲んだ。強がってみたものの、校門の前の光景を見ていると体が強張ってしまう。
 ハイヤーやらベンツやらが並んでいる。真っ黒だ。校門から出た女生徒達は、当たり前の顔で乗り込んでいる。駅の方に向かっている女性徒も居るが、並んだ高級車など気にしていない。日常になっているのだろう。俺にとっては非日常だ。テレビドラマやマンガや小説という作り物の世界でしか見た事のない光景が、現実として目の前にある。浮世離れしているが、実際目にしているから信じるしかない。本当に奈呼は、こんな学校に通っているのか。
 ふいに、一台のベンツから人が出て来た。
 服もサングラスも黒ずくめの男が二人。角刈りの方は、覚えがあった。奈呼を連れ戻しに来た男だ。背の高さや体形が似ている。木の枝を何本も束ねたような首も。
 俺は憎しみを込め、ボディーガードを見つめた。よくも奈呼を連れ去りやがって。思った瞬間、ボディーガードが顔を向けて来た。視線が矢となり飛んで来る。
「まじっ」
 見つかってしまったか? 
 俺は電柱の延長線上を選びながら、塀に沿って遠ざかった。超能力者かよ。遠目で、しかも隠れて見ていたのにどうして分かったのか。いや、たまたまに違いない。自分に言い聞かせたが、視線が背中に突き刺さっているようで気色悪い。 
 俺は早足で塀の角を直角に曲がり、壁に背中を着け、胸に手を当た。冷静になろうと大きく息を吐く。くそったれ。奈呼の顔を一目も見れず逃げ帰ったなど、笑い話にもならない。
 正直、ボディーガードの存在は予想していた。でもいざ目にすると、緊張してしまう。前は酷くやられてしまった。考えるまでも無く、ボディーガードをぶっ倒す事など出来ないだろう。銃でも持っていれば別だが。ナイフだけで勝てるとは思えない。しかも、相手は二人だ。一人でも厄介なのに。どうすれば有利な状況を作り出せるだろう。頭を拳で軽く殴り、コメカミを手の腹で抑え、目を瞑ってお守りのナイフをポケット越しに撫でた。
 耳鳴りが大きくなった。
 昔、数十人のチンピラに追い駆けられた時の事を思い出す。あの時も緊張したが、レベルは遙かに違う。上手い方法が思いつかない。
「まいった」
 出たとこ勝負で勝てる可能性は低い気がする。
 チャンスが来るのを待つといっても、隙など出来るのか。
 俺は唾液を飲んで目を開いた。
 目の前に男が立っていた。黒服だ。気配など感じない。つまり、俺をやろうと思えばいつでもやれたという事だ。
 奈呼を連れ去った男。名前は岩木だったか。心の準備をする間も無い。もっと遠くに逃げれば良かった。甘かった。自分のバカさ加減に腹が立つ。
 ともかく一番最悪な状況だ。今日は年に一回の大ラッキー日、そうであって欲しいと願いながら勝機を窺うしかない。
「なんだよ」
 強がってみたものの、正直、今すぐ逃げ出したかった。助けてくれる奈呼は居ない。
 岩木は黙って俺を見下ろしていたが、おもむろにサングラスを取って言った。
「諦めろ。おまえに構っている暇は無い。お嬢様は、今、おまえだけではなく、ストーカーや色々危険な人間に狙われているお立場だ」
 岩木は溜息混じりに話を続けた。
「新垣霧矢。二十一歳。十二月十二日生まれ。身長百七十五、体重七十。父親はアイルランド系アメリカ人で海兵隊員、ジョージ・キニア。母親はホステスで売春婦、新垣喜久子。父親とは二歳の時、離別。その後、父親はアメリカに帰国。母親は薬物による錯乱で事故死。児童施設たけのこ園に引き取られ、高校卒業した十八歳の時に独立。同じくたけのこ園出身者が経営する建築会社で、生計を立てている。血液型はO型。好きな食べ物はシソを散らしたおにぎり、鳥の立田揚げ。嫌いな食べ物はパンの耳、らっきょう。こんなところか」
 俺の知らない父親の名前まで知っている。つまり、一人の人間を簡単に調べられる力を持っているという事だ。咄嗟に岩木の胸倉を掴んでしまったが、何も言えない。唇の震えが止まらない。
 岩木は指先一つ動かさない。代わりに首を横に振り、疲れたように言った。
「おまえも分かっているだろうに。おまえとお嬢様とでは、住む世界が違い過ぎる」
「住む世界が違う? そんなこたぁ、奈呼が居なくなった日から分かってんだよマザーファッカー! でも会いに来てんだよ!」
「じゃあ聞くが」
 岩木は眉一つ動かさず言った。
「おまえと一緒になって、お嬢様が幸せになれると思うか? 這いずるドブネズミのようなおまえが、どうして幸せに出来る。笑わせるな。現実を見ろ。お嬢様は今まで接した事の無い人間に熱病を伝染されたようなもの。覚めてしまえば終わりだ。そうなればおまえも辛いだろう?」
「奈呼の何が分かる!」
「私はお嬢様が生まれた時からずっと見て来た。もしかしたら、お嬢様の父上より見て来た。だから、分かる。みすみす不幸になるのを見逃す訳にはいかない」
「しかし!」 
 岩木は俺が反論しようとしたのを無視し、襟元に付いたマイクに口を近づけ唇を小さく動かした。もう一人のボディーガードと、やりとりをしているのだろう。もしかしたらもうすぐ奈呼が出て来るのかもしれない。岩木の意識は今、奈呼に向いている筈だ。例えばこの状況で、俺が突然動き出したらどうなる。岩木の反応がコンマ単位遅れるのではないか?
 真正面からでは絶対勝てない。でも逃げるだけならどうにかなるかもしれない。
 奈呼の前に辿り着けなかったら負け。行ければ勝ち。単純な話だ。
 賭け。
 失敗すればチャンスは消える。永遠に奈呼と顔を合わせる事も出来なくなるだろう。
「あんたの言う通りかもしれない。でもな……」
 俺は体を横にずらし、校門が視界に入るよう角から外側に出た。 岩木も俺の視界を遮るようにして、前に立ちはだかる。俺は岩木の肩越しに校門を盗み見た。もう一人のボディーガードが見える。誰か早く車に乗せようとしているのか、校門に向かい手で促している。
「ドブネズミにもな……」
 俺は岩木から対角線上に駆けた。
「意地があんだよ!」
「きさま!」
 岩木が手を伸ばして来る。指先が服に当たる。構わない。足を前に出した。避けられた。笑えるぐらい上手くいった。わざと逃がしてくれているのかと思えるくらいだ。俺が素人なので、岩木も油断していたのだろう。
「奈呼ぉ!」
 俺は叫びながら、校門の前に突っ込んだ。名も知らないボディーガードが顔を向けて構える。
 知った事か。
 校門から女が出て来た。目を大きく見開き、俺に顔を向けている。
 タイミングばっちし。
 間違いない。
 奈呼だ。
「おらぁ!」
 俺はボディーガードに飛び蹴りを放った。当たる必要は無かった。奈呼の前に行く隙が出来れば良い。
 どうやら今日は、年に一回の大ラッキー日だったらしい。
 俺の足の裏は、ボディーガードの胸へカウンター気味に入った。走って勢いをつけたのが功を奏したのか、岩木以外がヘボなのか、ボディーガードは後方に吹き飛んだ。
「奈呼!」
 奈呼以外の女生徒が、ゴミに向けるような視線を向けて来る。
 どうでも良い。
 奈呼は目と口を開いたまま、動きを止めていたが。
「霧矢……」
 それ以上何も言わず、顔を背けた。
 どうしてそんな態度だろう? 少しだった。それでも、一緒に暮らしたじゃないか。奈呼にとっては、思い出したくもない事だったのか? 幸せと感じていたのは、俺の独り善がりだったのか?
 認めない。信じない。
 奈呼に手を伸ばしたが、突然岩でもぶつかったような衝撃が背中に起きた。抵抗できずアスファルトにダイビングする羽目になった。咄嗟に手で庇ったので、地面に顔を打ちつけず済んだが、アスファルトを滑った手が熱い。岩木か? 俺は奈呼に手を伸ばした。
「奈呼……」
 奈呼は真正面を見つめたままで動かない。俺に顔を向けようとしない。それでも一瞬だけ俺を見たが、唇を噛み締め、すぐ顔を背けた。
「お嬢様! 早く車へ!」
 俺の体の上で、岩木の怒鳴り声が響いた。有無を言わせぬ口調だ。奈呼は小さく頷くと、ベンツに乗り込もうとした。
「何で逃げる!」
 俺は声で捕まえるつもりで怒鳴った。
 奈呼はついに俺に顔を向け、それ以上痛くて聞けないという表情で怒鳴り返して来た。
「好きに決まってる!」
「だったら!」
「お嬢様! お車へ!」
「うるさい!」
「うるせぇ!」
 俺と奈呼の声がはもった。岩木の舌打ちが耳元で聞こえた。
 俺が蹴り飛ばしたボディーガードが、奈呼の背中を押して無理矢理車へ押し込もうとする。奈呼は車のドアに手を当て、腕を突っ張って叫んだ。
「あたしの事なんて忘れて。あなたに迷惑がかかる!」
 なにがあたしだ。
 うち、だろうが。
 何すかしてんだ、くそったれ。
「好きだからもう会わないの。あたしは、うちは、あんたが好きでもどうしようもできない家に生まれたの。ごめん。岩木さん離してあげて」
「しかし」
 岩木の声が張り詰めた。
「霧矢が暴れても、岩木さんなら簡単に押さえ込めるでしょう?」
 俺は奈呼と岩木のやりとりに割り込もうとした。だが何を言って良いか分からず地面に顔を着けた。
 アスファルトの臭いが鼻をつく。
 体に乗った重さが消えた。
 顔を上げると、奈呼が居た。俺の前にしゃがんで口を開いた。
「分かって……」
 嘘をついている言い方だ。
 俺はアスファルトに手を着き、立ち上がり、奈呼を見つめた。
 奈呼も立ち、俺を見つめて来る。
 奈呼の目を見つめるのが辛くなり、顔を背けた。
 視線の先に、岩木が居る。
 岩木が軽く頷いた。消えろと言うサインだろう。
 もう、駄目なのか。これで終わりなのか。
 ふと、奈呼を連れて帰るベンツが視界に入った。奈呼を乗せたら即座に走り出せるようにしていたのか、エンジンはかかったままだ。運転席には誰も居ない。
 ある企みが浮かんだ。どんな結果になるか分かっている。殺されるかもしれない。でも、ドブの中を這いずり回っている、金も力も無いドブネズミのような俺だが、大人しく、はいそうですか、じゃぁさようならなんて。
 俺は尻ポケットに手を突っ込んだ。
 心臓の鼓動が大きくなる。
 良いのか。俺、やって良いのか。
 俺はポケットからナイフを出すと、奈呼の手首を掴んで引っ張り寄せて叫んだ。
「出来る訳がねぇんだよ!」
 奈呼の首元に、ナイフを突きつける。
「それ以上近づくな。こいつと一緒に死ねればそれで本望だ。俺は狂ってんぞこら! 近づくんじゃねぇ! 何するか分かんねぇぞ! 行くぞ、奈呼」
「貴様!」
 叫ぶ岩木を、奈呼の首にナイフを突き付ける事で牽制しながら、ベンツに近づいた。奈呼の抵抗は最初だけだけだ。自分から積極的にベンツに乗り込み、助手席に移動した。俺もベンツに乗り込み、ドアを閉めようとした。岩木が駆け寄って来て、閉められないよう自分の体を、ドアと車体の間にねじこんで来て、俺の眼前に銃口を突きつけた。
 軽い音が響いたのとほぼ同時に、岩木が顔をしかめて肩を掴んだ。
岩木の手の下から、血が流れている。何がなんだか分からない。
「なんで、おまえが、こんな所に居るんだよ!」
 知っている声が聞こえた。見ると樋川君が何人かと一緒になって走って来る。余計に頭が混乱する。もう一人のボディーガードが銃で応戦を始めた。
「何ぼさっとしてんだ! 逃げろ! 後で合流するぞ。あの場所に行け!」
 樋川君が銃で牽制しながら叫んだ。なんだこれは。
「貴様ら!」
 岩木は銃で撃たれたというのに、立ち上がって俺に銃口を向けて来る。再び銃声が鳴り響いたので、すぐしゃがむ。
「いっ、岩木さん!」
 奈呼が手を伸ばして怒鳴った。
 俺は構わず、不安と共にアクセルを一杯に踏み込んだ。


 樋川君が言ったあの場所とは、多分、此処だろう。
 たけのこ園のみんなで、もう一度行こうと約束した遠足。ガキの頃の思い出の山。
 山と山の間から街が見える。夕日がビルを赤く照らしている。
 俺と奈呼以外、誰も居ない。
 俺達は手を繋ぎ合い、無言であずま屋のベンチに座っている。
 奈呼は離さないと誓っているように、俺の手を強く握り締めている。横顔は、夕日に照らされた街と同じ色に染まっていた。
「わりぃ」
 今回の事は、俺の我が侭だ。岩木の言う通り、育った環境が違い過ぎる。俺が一生働いても見る事の出来ない金を、欠伸混じりに出せる男とだって奈呼は簡単に付き合える。
「ほんとどうしてくれるん。これでパパからまた、大目玉くらうわ。ねちねち言われて、小遣いも大幅に減らされて。ほんま、たまらんわ」
 奈呼は心の底から怒っている事を知らせるように、頬をふくらませて言った。
「それに岩木さん、大丈夫かな……」
「わりぃ」
「責任とってくれんと、うち、困るんじゃけどな」
 奈呼が怒った子供みたいな口調で話を続ける。
「外国に逃げたらどうじゃろか」
「えっ?」
 奈呼は唇を一文字に結び、街を見たまま眩しそうに目を細めた。
 冗談には聞こえなかった。本気で考えているのか。
「お金なら心配無いで。物価の安い国だったら、当分不自由無く暮らせるだけのお金は持ってる。豪遊して暮らせる程あるって訳では無いけどな。お金無くなったら、がんばってなぁ」
 普通なら笑って終わるバカ話だろう。でも奈呼は、奈呼の家はただの金持ちでは無く、大金持ちらしい。その気になれば、可能だろう。
 一瞬乗ってみたくなったが、やはり現実的では無い。
「そんなの無理だ。すぐ駄目になるよ」
「それでもええよ。霧矢と一緒なら、野垂れ死にもそれはそれで良いかもしれん。笑って死ねる気がするんよ」
「奈呼……」
 奈呼が顔を向けて来た。俺は奈呼の目を見つめた。嘘をついているような光は無い。俺の全部を受け止めようとしている目だ。
 俺はベンチの背もたれに背中を預けて夕焼け空を見上げた。
 ママが死んで、難しい事は考えず突っ走って来た。
 奈呼と一緒に外国へ逃げる。その選択は良いかもしれない。空子と離れるのは寂しい。でも、おまえが一番幸せになれると思う選択をしろって納得してくれるだろう。永遠の別れでも無い。
「にゃお」
 俺に顔を向けたまま、奈呼が猫の鳴き真似をして静かに目を瞑った。
 俺は奈呼の唇に、自分の唇を重ねた。
「どういうことだよ」
 声が聞こえたので唇を離し、振り返った。
 樋川君が立っていた。あの混乱を無事に抜けて来たらしい。
「樋川君こそ、どうしてあの場所に居たんだ?」
 俺は笑って言いながら立ち上がり、近づこうとした。
「近づくな!」
 樋川君は奈呼を指さして怒鳴った。
「おまえこそどうしてその女と一緒に居るんだ!」
 樋川君の目が鋭さを増した。奈呼にそんな目を向けるのか分からない。
「おまえの所為で計画は滅茶苦茶だ。学校の帰りが一番のチャンスだった。でも好都合と言えば好都合かもしれないな。ボディーガードと離す事が出来たんだから」
 首を傾げるしかなかった。樋川君が何を言っているのか掴めない。
「知り合いなの?」
 奈呼が聞いて来たので頷いた。
「たけのこ園の先輩なんだ」
 俺は再び樋川君に近づこうとした。
「近づくなって言っただろうか!」
 樋川君が悲鳴に近い声で叫んだ。
「はぁ? 訳分かんねぇ事言うなよ。どうしたんだよ」
 俺は構わず近づいた。樋川君がスーツの内側に手を入れて何か取り出した。俺は樋川君の手の先を見た。黒い物が握られている。確かに銃だ。
 立ち止まるしかなかった。真っ黒な銃口が俺を見つめて来る。なんの冗談だ。
「とりあえずさ。どういう事か説明してくんない?」
 俺は唾液を飲んで聞いた。苦い唾液が喉を落ちて行く。樋川君の目は完全に据わっている。
「あぁ、もう、くそ」
 樋川君は俺に銃口を向けたまま、開いた方の手で頭を掻いた。
「言っただろうが! 俺は俺の大事な人を守る為に死なないといけないって。言っただろうが言っただろうが!」
 樋川君が、銃口を奈呼に向けた。
「その女の親父はな。うちの組のオヤジを家族ごと殺したんだ。虫けらみたいによ」
 説明を聞いても分からない。俺が理解していない事を感じ取ったのか、樋川君は苛ついた表情をして続けた。
「その女から何も聞いてないんだな。そいつの親父はな、裏世界の有名人なんだよ。チャイニーズマフィアと絵を描いてな、うちのシマを荒らした事から全てが始まったんだ!」
 樋川君の額には青筋が浮かんでいる。
 俺は奈呼を見た。奈呼は眉間に皺を寄せ俯いたまま黙っている。どうやら本当の事らしい。
「だからって、奈呼は関係無いだろうが!」
「俺のオヤジの娘さんだった百合葉はな、お前の横に居る女と同じ年だったんだよ。それでな、レイプされた挙句殺されたんだ! 殴られて! あんなに綺麗だった顔が! 涙の跡なんて血で隠れてよ!」
「だからってだからって、奈呼を殺したからといって……」
「百合葉はな! 空子以外で俺が初めて愛した女だったんだ!」
 聞いた瞬間、息が止まった。銃声が鳴り響いた。俺の足元の土が散った。
「霧矢。頼むから、おまえ、どけ。死にたくないなら、どけ」
「ふざけんじゃねぇよ。殺させてたまるかよ」
 再び銃声が響く。肩に熱さが広がった。
 俺は自分の肩口を見た。ティーシャツに、赤い血が滲んで広がる。
掠っただけだと思う。でも、かなり痛い。樋川君は本気だ。
「今度は外さ無い。おまえだからって容赦しねぇ」
「やめてください」
 突然、俺と樋川君の間に奈呼が割り込み両手を広げた。
「父がそんな事をしていたとは、薄々知っていました。あなたのお怒りは良く分かります。でも霧矢を殺さないでください」
「おまえ何言ってんだよ」
 俺は奈呼の肩を掴み、自分の背後に隠そうとした。その瞬間、打たれた肩口に鋭い痛みが走ってつい蹲った。
「お嬢さんいい覚悟だ」
 再び銃声が鳴った。
「やめろ! やめてくれ!」
 奈呼が後方に一歩下がって揺れた。奈呼の頬に、赤い線が浮かび、そこから血が垂れだした。
「くそったれ、くそったれ、くそったれ。うまくいかねぇな!」
 樋川君は銃を構え直し、奈呼に狙いを定めた。俺は肩の痛みも忘れ、奈呼の腕を引っ張り強引に自分の背中に隠した。
「なぁ霧矢。俺はおまえを殺したくないんだよ。だから、どけよ」
「樋川君こそ此処は引いてくれよ」
「逆の立場だったら! おまえならどうすんだよ!」
 多分、奈呼が殺されたら、俺だって殺した奴だけでは無く、命令を下した奴も含めて全員、ぶち殺したいと思うに決まっている。
命令をした奴が大事にしている者まで巻き込み、自分の命をかけてでも復讐するだろう。樋川君と同じように。間違い無い。
「でも、どけないんだよ! あんたが覚悟を決めているように、俺も覚悟を決めているんだよ! 命をかけてでも、奈呼を絶対に守るんだよ!」
「あぁ、そうなんだよな。てめぇもそうだ! てめぇが幸せならそれで良いんだ! あぁ、そうだよ! みんなそうだ! オヤジが死んだ時よー、笑っていた奴も居たんだ。甘い蜜が転がり込んで来たってな。みんな、てめぇが大事だから、相手が悪過ぎるって、復讐なんてバカがやるんだってさ! もちろん俺もそいつの親父を殺せるとは思ってない。ガードが厚すぎるからよ。でもな! 少しでも、少しでも俺の気持ちを分からせてやらないと、気が済まないんだよ!」
「パパは、うちが死んでも多分悲しまん。やっかいばらいができたと思うだけかもしれんよ?」
 俺の背後から奈呼が出て来て言った。
「おまえ隠れてろ」
 俺が言っても奈呼は引かない。逆に樋川君に一歩近づいた。
「どういう事だよ!」
「再婚相手に夢中じゃもん。もちろん、少しは悲しんでくれるかもしれん。でも、同時に安堵するんじゃないかな。うちは女で、出来も悪いし。継母とその連れ子とも上手くいってないし」
「知るかよ。関係無いんだよ! とにかく死んでくれよ!」
 樋川君が奈呼に銃口を向けた。
「やめてくれ!」
  俺は立ち上がり、自分の背中を盾にする形で、咄嗟に奈呼を抱え込んだ。 
「あぁ……?」
 銃声は鳴らなかった。
 振り返ると、樋川君が銃を構えた形で固まっていた。樋川君の唇の端から顎にかけ、一筋の血が垂れた。
「何してんだよ! ボクの恋人に何をしているんだ!」
 再び声が響いた。樋川君でも奈呼でも無い知らない声だ。声で後頭部を殴られた気がした。
 樋川君の背後に、いつの間にか見知らぬ男が立っていた。ナイフを握っている。ナイフの先は真っ赤に濡れていた。夕日の色よりも濃く深い赤色。
 緑色のアウターでボア付きのフードを被っている。俺は学校の前で見た男を思い出した。あの男が居る理由が分からない。
 男は粉になりそうな程、小刻みに体を震わせている。
「誰だ? てめぇ……」
 樋川君は男の襟首を掴んだまま、ゆっくり崩れ落ちた。
「どうしてこんな所まで。怖いよ」
 奈呼が俺の腕を掴んで来た。奈呼は分かっているようだが。関係が分からない。検討もつかない。
「知っているのか?」
 とにかく奈呼は怯えている。歓迎できる相手では無いのは察しがつく。俺は腕で庇いながら、奈呼に聞いた。
「うちにつきまとっているストーカー。岩木さんにこっぴどくやられても諦めないんよ」 
「ストーカー?」
 男は前のめりになり、どうしてそんな面白い話を知っていると言わんばかりの勢いで笑った。そして唐突に笑うのを止めると、敵意丸出しの目で淡々と言った。
「ボクの奈呼に何してんだよ。ボク達は恋人同士なんだよ。なぁ、奈呼」
「あんたなんて知らない。頼むからもうつきまとわないで」
「恋人に向かって酷い口の聞き方だな。奈呼はそういう事を言ってはいけないんだ。お仕置き決定だな」
 男は何度も舌打ちしながらナイフを振った。
「狂ってる」
 俺は頬を叩いて気合を入れた。奈呼を守りながら相手をするのは少々きつい。それに、樋川君の状態も気になる。出来るだけ早く始末したいが、相手は光物を持っている。軽くは見られない。
 ただ似た状況は経験して来た。実際、太股やら肩を刺された事だってある。しかし俺は生き延びて来た。今回も上手く切り抜けられる筈だ。
 俺は拳を強く握った。手の平に、爪が強く食い込む感触と同時に熱が広がった。俺はナイフと男を交互に視線を走らせて言った。
「奈呼はおまえなんて知らないって言ってるぞ」
「おまえこそ誰だよ。邪魔すんじゃねえよ!」
「こいつの男だよ!」
 俺は奈呼の首に手を回し、抱き寄せ頬にキスをした。
「貴様! ど汚ねぇ手を離せ!」
 男は前のめりで怒鳴ると、被ったフードを脱いだ。
 太い眉毛は繋がっている。目は魚みたいに大きく丸くて離れている。シンナー中毒者みたいに、口許はだらしなく緩んでいる。
「そんな訳あるか。奈呼はボクの物なんだよ」
 男が直線的に近づいて来る。早歩きだ。ナイフを持った手を後方に振った。俺は反射的に男の腹を蹴っていた。男の体が後方に飛んで転んだ。弱い。ただの素人だ。このレベルなら、負ける気がしない。潜った修羅場が違う。
 男は立ち上がると、ぎぎぎぃーと見た事の無い獣が上げそうな叫び声を張り上げ再び向かって来た。
 岩木が居てくれればと都合の良い事を考えてしまう。
 俺は男に向かって逆に近寄り、ナイフを持っている手を蹴り上げた。ナイフが飛んで地面に刺さった。俺は男のフードを掴むと、自分の右後方に向かい強引に引っ張った。男は簡単に転んで、仰向けになった。俺は即座に馬乗りになり、顔面に拳を叩きつけた。
 殺さないよう、注意深く力を抜いた。男はこんな筈ではないといいた気に泣いている。関係無い。俺は顔面を何度も殴った。とにかく気を失わさなければ面倒だ。その後はどうしよう。警察に突き出したいが、奈呼をさらった状況では無理だ。病院の前にでも捨てておけば良いか。そんな事を考えながら殴っている時、不思議な事が起きた。
 男の顔が歪んで変わった。現れたのは、外人の顔だった。水色の目をしている。俺によく似ている。俺はその男を知っている気がした。そうだ。ガキの頃、分からない言葉で怒鳴り散らし、ママを殴っていた男。ママは俺を胸に抱え、口から血を散らしながら泣き喚いていた。
 俺とママを捨てた男。
 俺の父親。
 ふざけんな。
 俺は今、何をしている? 
 分からない。
 肩までずしりと来る、拳からの振動だけ感じる。
「駄目! 死んじゃう!」
 耳元で奈呼の声が聞こえた。我に返ると、奈呼が俺の腕を掴んでいた。
 俺は視線を落とした。男の顔は血塗になっている。鼻は無様に曲がっている。開いた口から歯が見えるが、もう数える程しかない。
 拳に痛みが走った。見ると拳に歯が刺さっていた。
「ここまでするつもり、なかったんだけど」
「なんか霧矢が霧矢で無くなったように見えた」
 理由は分かっている。男の顔が親父の顔に変わった瞬間に、俺は俺を見失った。同時に、俺は親父を許していなかった事に気づいた。恨みを持っていた事に。俺とママを捨てた事を。殺したい程に。
「霧矢……」
 俺は男の体から降りて立ち上がった。
 奈呼が抱きついて来た。どんな毛布より暖かく優しい温もりで包んでくれた。
 俺も奈呼を抱き締めながら覚悟を決めた。
 奈呼と一緒に歩みたい。逃げるのはもう沢山だ。
 ドブネズミとお姫様くらい立場が離れているかもしれない。でもなんだ。世界を滅ぼすミサイルが飛んで来ても、体を張って守ってやる。
「そうだ樋川さん」
 奈呼が思い出したように早口で言っ、て樋川君の方に顔を向けた。殺されかけたというのに心配している。それはともかく、樋川君は大丈夫だろうか。
「大丈夫かな」
 奈呼は再び俺に顔を向けた。その瞬間だ。
「危ない!」
 奈呼が俺の腕を引っ張って叫んだ。奈呼の力とは言え、よろめいた。水中にいるように、全てが緩慢に見えた。
 ストーカー野郎が、よろめく俺の横を通り過ぎ、奈呼にぶつかって止まった。
「はぁ」
 奈呼が疲れ切った声を出した。唇の端から、赤い血が一筋垂れた。白いブラウスに、赤い染みが広がる。
「えっ?」
 理由が分からない。
 考えたくない。
 赤色の中心には、ナイフの柄が飛び出ている。
 もう一本、ナイフを持っていた?
 男は涎を垂らさんばかりに大きく口を開けて笑い出した。
「きゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃぁぁあ」
 イラツイタ。
 おかしいか? 
 何か、おかしいか? 
 そうか。
 おかしいか。
 おまえ、
 まじ、
 殺す。 
 俺は尻ポケットからナイフを取り出し、男に駈け寄った。
「死ねよ」
 男の胸に向かい、ナイフを突き立てようとした。
「駄目! 人殺しになっちゃ駄目!」
 奈呼が制止してくるが無理だ。
「駄目……」
 奈呼が腕にしがみついてきた。奈呼は顔を上げると、世界の不幸を浄化してしそうなくらい透き通った瞳を緩ませ、顔を左右に振った。
「やめて……」
「くそったれ!」
 俺はナイフを捨てると、奈呼から離れ、男の顔面におもいっきり拳を打ち込んだ。
 こんな奴、砕け散ってしまえばいい。
 男は前のめりになると、顔から地面に崩れていった。
 終わりだと思った瞬間、男は完全に倒れこむ手前で体勢を整え、腕を振り上げて笑った。
「きゃきゃきゃきゃきゃ!」
 俺の太股に、ナイフが突き立てられた。
「がぁ!」
 男はナイフを抜くと、腕を振り上げて言った。
「おまえが死ね」
 ナイフが俺の脳天に向かって迫る。
 俺は即座に頭を避けた。肩にナイフが突き立った。
「いってぇ……」
 体の力が、一気に抜けた。
「おまえ誰だよ。邪魔すんなよ。ボクの恋を」
 男は口元を手で拭うと、奈呼に向かい歩き始めた。
 銃声が鳴った。
 男は後ろから蹴られたように前方に飛び跳ね、口から血を撒き散らしながら倒れた。
 俺は力を振り絞り、樋川君の方に顔を向けた。
 樋川君は倒れたまま、銃を構えていた。
「ひっ、樋川君……」
「百合葉ー、ごめんな。仇討てなかったよ。ごめんな、ごめん……な、ごめんな……」
 神経が研ぎ澄まされている所為か、樋川君の声が微かに聞こえた。
「ごめんなぁ……生きろよ……霧……」
 樋川君の手から銃が落ちた。同時に体の力が抜けて跪いた。
「がぁぁぁぁ!」
 なんだってんだ。
 俺は地面を這い、倒れている奈呼の元に向かった。涙が止まらない。
 樋川君が死んでしまった。今度は奈呼が死んでしまいそうだ。
 なんだってんだ。
 なんだってんだ。
 なんだってんだ!
 くそったれ。
 くそったれ!
 くそったれがぁ!
 なんとか奈呼の元に行く事は出来た。
 俺は奈呼の手を握った。奈呼も手を握り返して来るが、力は入っていない。
「どうしたんだよ。なんだよ。これから二人でずっと暮らすんだろ? 誰にも邪魔をされない場所で、死ぬまでいちゃつくんだろ?」
 俺が言うと、奈呼は初めて会った時と同じく、眉間にシワを寄せて笑いながら呟いた。
「にゃお……」
 なんでこうなる。
 神様は、
 運命は、
 幸福は、
 俺が嫌いなのか?
 奈呼は笑ったまま目を瞑った。やっぱり酷く困っているように見える笑顔だった。









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