コード感 17
「コード感」シリーズ第17回です。今日のお題は、私がこのようなことを考えるようになった経緯についてです。それでは、いってみます。。。和声学の理論を紐解くと、カデンツの最小単位として、言わずと知れた「ツーファイブ」すなわち IIm7-V7-Imaj7 という進行が取り上げられています。これは、機能和声学において、それぞれサブドミナント(SD)、ドミナント(D)、トニック(T)という、和声の機能的役割からみた、「コード進行の最小単位」とされているものです。機能和声学とは、各コード(和声)には機能があり、曲がコードの機能によって進行させられる、とする理論です。これについては諸論ありますが、代表的なものは1)ドミナントを、トニックの5度上方の音をルートとする和音、サブドミナントを、ドミナントの2度下方(サブ=Sub-)とする説。巷では、^4=Subdominant, ^5= Dominant, ^1=Tonicが非常に広く知れ渡っており、たまに^7=Leading Toneを知っている人がいる程度ですが、それだけではなく、オクターブにある7つの音には、^1=Tonic, ^2= Supertonic, ^3= Mediant, ^4=Subdominant, ^5= Dominant, ^6=Submediant, ^7=Leading Tone と、それぞれ名前が付けられています。これに基づけば、たしかにそういうことになります。2)ドミナントをトニックの5度上方の音をルートとする和音、サブドミナントを、トニックからドミナント・モーションで、さらに5度下方に進行した音をルートとする和音だという説。この説はあまり一般的ではありませんが、通常Dominant Motionといえば5度下方に進行することを指し、この意味合いでは、ドミナントが「5度下方に進行してトニックに進行する和音」、サブドミナントが「トニックから5度下方(Sub-)に進行した場合の和音」と言うことになりますので、なるほど説得力があります。ジャズの指南書では、ツーファイブのコード進行におけるラインの構築・あるいはコンピングは、基本中の基本として採り上げられています。クラシック(トラディショナル)においても、このII-V-Iという進行は基本中の基本とされており、分析等を行う場合は、これに基づいて曲を解析させらるなどします。クラシック(トラディショナル)について、ちょっと補足を入れると、日本ではII-V-Iよりも、IV-V-Iという進行がカデンツの最小単位として教えられている場合が多いです。従って、欧米で言う「ジャズ理論」に相当する、日本国内におけるポピュラー・ミュージックの理論でも、「スリーコード」といえばIV-V-Iを指すことが多いです。私や妻の経験上から言えることは、少なくともアメリカとウクライナ・旧ソビエトでは、クラシック(トラディショナル)においても、「スリーコード」はIV-V-Iではなく、II-V-Iです。これは、IVコードがサブドミナントの代表であることに変わりはないが、IVコードと同じ機能を持ちながら、Tonicコードまで一貫してドミナント・モーションを実現することができる、IIm (あるいはii) コードを、カデンツの基本とする考え方に基づいています。 さらに、Vコードについては、通常はV7として用いられ、3全音「トライトーン」という非常に不安定な音程が含まれており、これが3度または6度に解決することにより、トニックが確定される、とされています。Vコードには解決を求めるパワーがあり、それがV-Iという進行の原動力となっている、というわけです。トライトーンが生じるのは、ある調性において、1ヶ所のみとされています。さらに、このトライトーンが解決するパワーが、トニック以外の和音について用いられる場合があり、ジャズ理論では、こうして用いられるトライトーンを含む和声を、V of ~、クラシックでは進行全体を指してTonicizationなどと言われていますが、こうした状況において用いられる7の和音(~7)は、ノンダイアトニックです。つまり、楽譜にすると臨時記号がふくまれます。巷で教えられている「カデンツ」は、基本的にはこんな感じですが、詳しくは専門書等を参照してください。なるほどぉ。そこで、素朴な疑問だが。。。V7 コードからI コードへの進行は、トライトーンという不安定な音程が安定した音程に解決するという原動力があることは、わかった。それでは、IIm7 コードや IVmaj7 コードからV7 コードに進行する原動力は、一体どこにあるのか?もっと言えば、コードなんて、どこへでも進行して行っているように思えるが、そうした場合の進行には、V7-Iにおけるトライトーンに相当する「原動力」は、無いのか?私が対位法的観点について考察し、トライトーン以外にも、2度・7度といった不協和音程が、協和音程に解決する力こそが、楽曲を進行させる原動力になっているのではないか、と考えるようになったのは、この疑問に端を発しています。当然、「それじゃあ、トライアドなど、不協和音が生じない和声には原動力がない、ということか?」という疑問が生じると思います。こうした疑問に率直に回答すると、トライアドをはじめとする不協和音がない和声でも、別の和声へと進行する「原動力」があります。なぜなら、ある調性において、その調性を構成する音それぞれに、ある特定の方向に進行する傾向があるためです。その代表例が、Leading ToneがTonicに解決する傾向です。それだけではなく、^1=Tonic, ^2= Supertonic, ^3= Mediant, ^4=Subdominant, ^5= Dominant, ^6=Submediant もまた、それぞれある特定の方向に進行する傾向がある、といわれています。ここで思い出して頂きたいのは、「和声とは、それぞれの旋律の動きの「おまとめ論」すなわち総体である」ということです。つまり、ある声部で動きがあれば、当然それに応じて和声も変化してゆく、というわけです。ある和音において、不協和音程が存在しなくても、声部における「動き」により和声が変化して、その結果として和声が進行してゆくのは、このためです。 これに対して、トライアドの係留(いわゆるsus4)や、2度・7度といった不協和音程は、協和音程に解決する、より切迫した必然性が造り出されており、クラシック(トラディショナル)の楽曲においても、単旋律における自然な動きの「傾向」よりも優先されていることは、先般お話したとおりです。そんなわけで和声学のクラスなんかでも、たとえばバッハなどを分析し、不協和音の協和音への解決が、リーディング・トーンがトニックに解決する傾向に優先されていることなどを確認します。さて、調性(トーナリティ)の存在するコンテクストでは、こうした単旋律における音の動きの「傾向」に依存して、曲が進行してゆくこともあるかもしれません。しかし、自明ではありますが、調性が存在しないコンテクストでは、リーディング・トーンがトニックに解決する傾向など、そうした調性に依存した「原動力」を利用することが出来ません。しかし、そうした場合でも、この不協和音程が協和音程に解決する「原動力」を利用することができるとしたら、どうでしょうか?そこで、John Coltraneの、いわゆる「トライトニック・システム」を分析します。その代表例として、Giant Stepsの進行を分析すると、1曲通してこれが可能であることが分かります。 しかし、先般お話しました通り、モーダルインターチェンジなど、不協和音がステップで解決不可能な場合もあります。 それにも関わらず、Giant Stepsのようなアトーナルな進行において、すべて不協和音がステップで解決可能な進行が選ばれているというのは、単なる偶然でしょうか。。。いずれにせよ、不協和音程が協和音程に解決する「原動力」は、アトーナル領域においてその真価を発揮する、と言えるでしょう。なぜなら、トーナリティという「引力=グラビティ」(のような自然の法則)が存在しないのであれば、不協和音程が協和音程に解決する「原動力」は、楽曲の進行において「主役」たりうるからです。現代音楽(英語ではTwentieth-Century Music)の和声においても、不協和音程が協和音程に解決すべきである、ということは、PersichettiのTwentieth-Century Harmonyにも記されています。しかし当然ですが、これはあくまでも「そうした傾向にある」あるいは「そういう決まりになっている」と解釈すべきで、実際には反例も多数存在します。つまり不協和音程の解決はグラビティとして考えるべきであり、そうしたグラビティに従って「地に足が付いた」曲を書くことも大切ですが、同時にそうしたグラビティからどのように抜け出すか、というのが、音楽のチャレンジである、と言うことができると思います。つまり、「グラビティである」という意味合いにおいては、調性も、不協和音程の解決も、同じである、ということです。> 「コード感」シリーズを初めから読みたい方はこちら。