2008年つごもりに想うこと 9
(前回から続く)「富める者の方が苦しみが大きい」というのは、本当のところは、年収300万円の人よりも3,000万円の人の方が苦しいかどうか、というレベルではなく、先ほどご説明したCapitalismの意味合いから、「持てる者」と「持たざる者」のレベルなのではないでしょうかと申し上げました。それは、最近頻繁に読まされている 「金持とラザロ」 という聖書のエピソードから考えることです。Luke 16:19-31There was a certain rich man, which was clothed in purple and fine linen, and fared sumptuously every day:And there was a certain beggar named Lazarus, which was laid at his gate, full of sores,And desiring to be fed with the crumbs which fell from the rich man’s table: moreover the dogs came and licked his sores.And it came to pass, that the beggar died, and was carried by the angels into Abraham’s bosom: the rich man also died, and was buried;And in hell he lift up his eyes, being in torments, and seeth Abraham afar off, and Lazarus in his bosom.And he cried and said, Father Abraham, have mercy on me, and send Lazarus, that he may dip the tip of his finger in water, and cool my tongue; for I am tormented in this flame.But Abraham said, Son, remember that thou in thy lifetime receivedst thy good things, and likewise Lazarus evil things: but now he is comforted, and thou art tormented.And beside all this, between us and you there is a great gulf fixed: so that they which would pass from hence to you cannot; neither can they pass to us, that would come from thence.Then he said, I pray thee therefore, father, that thou wouldest send him to my father’s house:For I have five brethren; that he may testify unto them, lest they also come into this place of torment.Abraham saith unto him, They have Moses and the prophets; let them hear them.And he said, Nay, father Abraham: but if one went unto them from the dead, they will repent.And he said unto him, If they hear not Moses and the prophets, neither will they be persuaded, though one rose from the dead. ルカ16:19-31ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。 持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。 このエピソードの中で、金持は「毎日ぜいたくに遊び暮し」ている、と言うことなので、働かんでも何とかなる人たちかな、と思いますね。その一方で、ラザロは「金持の玄関の前にすわり、 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた」と言われると、うーん、自分の姿を重ね合わせざるを得ない…けど、いくら年収があったとしても、雇われて働いてたら、やっぱラザロなんじゃないだろうか?とかんがえてしまう。違うかなあ…この辺、聖職者の方だったら、スパッと「いいえ」なり「その通り」なりの答えを頂けるところなんですが…まあ、金持ってる奴の方が苦しい、というのは、閾値があって「苦しい」「苦しくない」に2分されるとしても、あるいは「苦しい」から「苦しくない」に徐々に変わってく場合でもそれほど変わらんので、このまま行きます…地獄、というのはやぶさかじゃない…ちょっと極端かな…とも思うけど。しかし、重要なのは、「大きな淵があって」渡れない、ということ。つまり、「手遅れ」が存在する、ということですよね。「持てる者」として「持たざる者」を搾取して、40代、50代と生きてくる。そこで「自分は間違ってたんじゃないか?」と思ったところで、人生をやり直すことは出来ない。聖書では「死後」の話がたくさん出て来ます。ウェブとかでチェックすると「ああでもない、こうでもない」といった、専門家の方々による様々な意見がありますが、個人的には、これは聖書が、肉体をもって現実世界に生きることとは違う次元の、スピリチュアルな話である、ということなんじゃないか、と勝手に解釈してますハイ。これは、mfa の美術史の先生がおっしゃっていたことで、たとえば、イースター(キリストが死から復活した日)が春なのは、春になって芽吹く草花や活動を始める動物たちを見て、スピリチュアルな部分で、つまりイマジネーションで、キリストの復活を重ね合わせて考えたからだろう、みたいな考え方です。平たく言えば、現実の世界はこの通りではないかもしれないけれど、みんなスピリチュアルな部分では「こうあるべきだ」と納得する話だから、聖書に残っている、ということだろう、と僕は考えてます。つまり、この時代の人たちは、「金持はかえって辛い思いをする」と考えてたってことですよね。それから2000年後の現在も、人間は当時と同じことで悩んだり、苦しんだりしている、というのは驚きです。(最初から全部読みたい方はこちら)