戦史好きが戦史を勝手に語るシリーズ
あんまりネタが無いというか、時事ネタはあるんだけど書こうにも忙しくて、いざ書こうとしたら何かこうとしたか忘れる事が多いんですが、元々テーマなんか無いままオレが好き放題思った事を書く場所なので、ネタ困った時にテーマが決まってれば書きやすいだろうと。なので、時々突然書いてた歴史ネタの中から戦史なんかをシリーズ化してみようかなと。まぁシリーズとか言いながら気紛れで単発で終わる可能性もありますが。記念すべき第一回の題材はズバリ「元寇」です。モンゴル帝国改め元朝が日本に侵攻してきた文永の役、弘安の役の2回ですな。なんでテーマに元寇を選んだかと言われたら、単にオレが最近になって弟から売りつけられたプレステ4を忙しくてしばらく放置してたんですが、カビはやしておくのも勿体ないので何かゲーム買おうと思って買ったのが、世界的大ヒット作(らしい)ゴーストオブツシマだったから。元寇の時の対馬を題材に外国人が日本人よりも日本らしいゲームを作りましたね。「洋ゲーの日本とかどうせヘンテコな日本なんでしょ?」なんて思いきや、殺陣のモーション、正座の際の太刀の置き方から神社への二礼二拍手一礼や抜刀、納刀の所作までとても細かく日本を表現しておりますな。いや、この開発者さ、絶対に黒澤明好きでしょ?(笑)まぁオレ自身が激しいアクションゲームが苦手なので遠くから弓撃ったり障子越に短刀で闇討ちとか、サムライというより刺客なんですけど。ま、ゲームの話は良いや。まずどこから書き始めるかですが、とりあえず教科書でよく言われる「2度の蒙古襲来は台風で元軍が壊滅して失敗した」は実は半分以上は嘘です。そもそもの経緯として、元軍はなんで日本を攻めたのか?ですが、これは簡単です。「降伏しないから」ですな。モンゴル帝国ってのは世界最大の版図を誇りましたが、チンギスハーンが1代であの広大な支配地域を確立してます。この拡大スピードの速さの基本は「抵抗せず従う国はそのまま任せる(徴兵と税は取る)」なんですが、抵抗した国は基本的には虐殺と略奪で焦土化させます。あえて滅ぼした国で残虐非道を行う事で、その噂をモンゴル軍自体が周辺に噂として拡散するんです。そうすることで周辺国は勝ち目がないとみると一切抵抗せずに開城するんで進軍速度がバカ速い。モンゴル帝国ってと何となくイメージで「野蛮な騎馬民族の馬賊みたいなのがオラオラしてた集団」みたいに思われがちですが、チンギスハーンは征服した国の技術や知識をどんどん吸収して軍に導入して行ったし、優れた技術者や職人は殺さずに技術を広めさせ自軍で習得していく柔軟さがあった。で…日本はこの元朝からの勧告を無視してます。何度か来てんですけどね。結局は元はこれを敵対とみなして日本侵攻を決める。ちなみに、蒙古襲来とか元寇って言いますけど、実際に日本の攻撃に参加してるのは中国の北宋とか朝鮮人が多い。当時の朝鮮は元朝の従属国だったんで日本攻めの準備をさせられてましたしね。で、第一回の文永の役。元軍は約1000艘弱の大船団で出発。対馬と壱岐に上陸を開始。元軍の上陸隊は約1000。対する対馬の武士たちは80余。まぁ、さすがに勝負としては無茶だ。全滅しました。対馬の島民は多くが捕らえられ奴隷にされたり殺されております。対馬と壱岐を停泊地として確保した元軍はついに九州北岸のに襲来。これを受けて九州の武士たちが続々と集まる。ちなみに世間一般的には侍と言うと「日本刀で斬り込み突撃」みたいなイメージだと思うんですが、少なくとも足軽みたいな供回りの兵卒は別として騎馬に乗った武士の主要武器は「和弓」です。全長で2mくらいありますかね。この和弓。引くのに必要な力が大体50~60キロだそうです。今の学生が弓道で使う弓で大体20キロ引ければ強弓で西洋のアーチェリーなんかでも40キロくらいだそうな。そんな長弓を馬上で手放しで引いて騎射する鎌倉武士は分類で言うと「重装弓騎兵」にカテゴライズされます。こんな化け物みたいな長弓なんで、当たれば西洋騎士のスチールプレートすら貫通します。腕や足に当たれば千切れる。これで集団で一斉に斉射して敵の動きを止め、いわば一撃離脱のヒット&アウェイを繰り返し、崩れた敵に突撃して殲滅ってのが一般的な戦術。ちなみにモンゴル帝国の騎兵は「軽装弓騎兵」と「重装騎兵」の複合軍ですが、恐ろしいのはモンゴル軍はその編成のほとんどが騎馬だということ。こんな騎馬率の高い軍隊は世界でも唯一かもしれない。日本の戦国なんかでも「騎馬隊」なんてのはいますが、全軍の中で騎兵が占める割合は少ない。1人の騎馬武者の周りにその供回りの家来みたいなのがいて小隊を作り、それの集まりで大きな部隊になってるので、実はあまり統制のとれた集団ではなかった。実際、博多に向けて進軍してた元軍を当初は迎え撃つつもりだったのが、抜け駆けした一体が赤坂の戦いで元軍を潰走させてたりする。その後に鳥飼潟でも元軍は日本軍に撃退され敗走。鎌倉武士、統制は取れてないが阿吽の呼吸で空気は読む。一応は総大将の命令系統はあるにはあるけど、細かい動きや連携はアドリブである。その代わり命知らずだ。手柄立ててこそ褒美がもらえ領地がもらえて自分たちの存在価値が出てくるうえに、死に方すら問われる人種として生まれた時から育てられてた人達。数こそ少ないが全員そこそこバーサーカーである。元軍も火薬兵器やらで押し込むが、とにかくいくら叩いても止まらない鎌倉武士。で、結局は元軍が一時撤退。元軍としては上陸戦なので、まずは上陸戦の第一目的である橋頭保を確保したかった。上陸地に拠点を確保しなきゃ補給も受けられないし船もつけられない。ただ、ことごとく水際で撃退されてるので大軍を揚陸させることができなかった。鎌倉武士頑張った。相当死んだけど。で…翌日の襲来に備えてた武士たちですが、朝になったら元軍は消えてました。みんな壱岐に退いたんですな。撤退した理由は色々あります。思ってたより日本が粘る。本来なら橋頭保を確保して海岸地帯を制圧して大軍を上陸させて補給も受けてから大宰府に進軍したかった。それに指揮官が矢を受けて負傷してた。あまり手間取ると日本側に援軍が到着して防備も固くなる。なので一旦引いて態勢を立て直そうと。で…壱岐に引き返す途中で暴風雨の直撃を受けて艦隊が大打撃を受けたわけ。つまり元軍が上陸失敗して負けたのは嵐のせいじゃないんですな。壊滅した原因は嵐だけど。これはもう諸説あって、神風の祈願の功績にしたい組織の思惑とか元軍側の記載なんかも色々あって微妙に相違があったりするんだけど、どの資料でも共通してたのは「とりあえず鎌倉武士はヤベェ」って所だけは共通なんだよ。で、元のフビライはこれじゃ当然諦めない。数年後に今度は弘安の役と呼ばれる二度目の日本侵攻を決行。今度は前回よりも艦船の数は4倍以上の4000隻以上。総員数14万の大軍で、しかも朝鮮半島からの軍に加えて、当時すでに滅ぼしてた南宋の中国東岸からも大軍を用意して2路から進行する計画だった。が…前回もそうだけど、今回のこの中国側から来る兵も大半は南宋の兵とか傭兵みたいな集団でモンゴルへ行ってのは少ない。半島から来る軍も大半は朝鮮半島の高麗兵。まぁ、士気は低い。で、またしても対馬と壱岐は侵略され大勢の島民が被害に遭います。ただ、この時からすでに元軍は計画が狂ってた。そもそも無線も無い時代に朝鮮半島と中国東岸から当時に軍を出発させて連携なんか取りようがない。本来なら壱岐で合流する予定が、半島の軍が到着したころにはまだ大陸側の軍は出発すらしてなかった。仕方ないので、とりあえず半島の軍だけで攻撃することにした。それに対して日本側も今回は前回の教訓もあって海岸線に長大な石塁を築いてた。これじゃさすがに強襲上陸は出来ない。元軍は博多湾の防備を見て上陸を諦め、湾の北側の志賀島に上陸。志賀島は兵が少なく防備も薄かったんだけど、そんな大きな島じゃないし、島と言っても長細い半島状で細いながらも陸続き。…まぁ、大軍を上陸させるにはちょっと危険な地形だけど背に腹は代えられない。……代えられないが、んなもん放っておく鎌倉武士じゃない。上陸当日の夜には日本側の一部の武士が小舟で夜襲を仕掛けて着岸中の元艦隊を襲撃。…一応、夜討ち、抜け駆けは暗黙ルールで禁止の日本軍ですが、そもそも文永の役ですら守っちゃいなかった。大艦隊に小舟でワラワラと群がって斬り込みながら、帰り際に船に火を放って元艦隊を燃やしまってやりたい放題やった挙句に腰に元軍の兵の首をゴロゴロ括り付けて帰って来た。そんな抜け駆け隊を見た周りの鎌倉武士。「なんじゃそれ!オレも行ってくる!」と次から次へと自分の小舟で漕ぎ出して、まだ混乱収まらない元艦隊に第二派、第三派の奇襲武士が斬り込んで片っ端から斬り捨てながら放火。更に2日後には海からだけじゃなく陸からも鎌倉武士が突撃してきた。そんなこんなで元軍は一旦またしても壱岐まで撤退。ちなみに、この時まだ別動隊は到着してなかった。壱岐で態勢を立て直そうとした元軍に対し、鎌倉武士は船を出して壱岐を奪還しようと逆上陸を敢行。壱岐の元軍はその頃にやっと別動隊が平戸島に到着したと聞いて、壱岐を放棄して別動隊と合流する為に平戸島に移動。態勢を立て直し再度博多湾へ向けて艦隊を進めるが、今度は日本側も小舟を出して海上で迎え撃つ。これが鷹島沖の海戦と言われる戦い。ちなみに当時の日本に海軍と呼べるほど大型の艦は無く、大体が手漕ぎのボートみたいなもん集めた水軍と言われるスタイルしかなかった。しかし、元軍はほとんどが南宋兵と半島の兵で士気は低い。一方の鎌倉武士はそもそも恐怖心がバグってる狂戦士みたいな集団で、とにかく倒しても倒してもしつこい。揺れる小舟の上からバカでかい長弓構えてとんでもねぇ威力の矢を打ってくる。双方ともに被害甚大で元もとりあえず博多上陸を諦めて撤退。……で、そこで今度は前回とは比較にならんマジもんの台風の直撃を受ける。これを「幸運だね」と済ませてるのが教科書なんだけどさ…元もバカじゃねーから夏に台風来るのは知ってんのよ。だから前回の文永の役は9~10月の秋ごろだけど、今回の弘安の役では春先5月に侵攻してる。それを3ヶ月近くも内陸への進軍を許さず水際で止めてた事で、当初の元軍の予想を超えた長期戦になって夏に入りガチの台風を食らったわけで、そりゃ年に何度か台風来るんだから長引かせたら負けるわな。それに弘安の役に関しては多分元軍も台風無くても上陸は無理だ。防塁は完璧だし逆茂木もあり海岸は要塞化されてたから。ようするに元寇は神風なんかじゃなく、単に命知らずな武士が好き勝手に暴れて追い返しただけという結論になる。それに日本じゃ森や湿地が多くてモンゴル騎馬軍団も使えない。大平原で決戦したら、組織だった統制が取れてて軽騎兵と弓騎兵の連携もできてる元軍は強いかもしれんけど、モンゴル軍は「城攻めが苦手」という欠点がある。元は本気じゃなかったという説もあるが、そもそも日本も鎌倉からの援軍は間に合ってないから九州だけで撃退してんだよね。まぁ、悲惨だったのは対馬と壱岐ですな。2度の襲来で島民は大勢が奴隷として朝鮮半島に連れて行かれたり殺されたりと、散々な目に遭ってる。元軍はモンゴル帝国の頃から前述のように「抵抗する相手は皆殺し略奪」スタイルだけど、日本来たのほとんど半島兵と南宋の兵だからね。そんな経緯もあるので、オレは韓国とかが「対馬は韓国領」とか言うの聞くたびに「テメエら対馬で何したか忘れたのか?」と胸糞悪くなるけど。世間一般では「元寇は台風で勝った」「武士は一騎打ち主体で組織行動できてなかった」とか教科書で習うからそのイメージありますけど、組織行動は元軍もできてなかったからね。純粋な蒙古兵じゃないし。ちなみに…モンゴル帝国の侵攻を受けた国家の中で、完全に撃退に成功した国家は実は2つしかないはず(オレの知識が正確なら)一つは我が日本。そしてもう一つが随分前にオレが、あまり知られてない名将としてティムールやサラディンと共に挙げて記事にしたバイバルスの率いるのマムルーク朝。バイバルスがモンゴル軍を破った「アイン・ジャルートの戦い」なんてのもありますが、それはまた別の機会に。