我思う、ゆえに我あり

2007/05/15(火)14:19

「明日の記憶」

映画(27)

去年日本アカデミー賞を取った映画「明日の記憶」を見てきた。ついでに、渡辺謙も舞台挨拶に来た。確かに長身(180センチ?)。でも、印象はスクリーンでみるまんまの人。映画の方がよく映っているというわけでもなく、実物の方がかっこいいというわけでもなく、そのままでした。今回も、アカデミー賞授賞式のときと同様、ちゃんとあんちょこもなく、自分の言葉でしゃべる感じだった。(覚えてきたんだろうけれど、自分が言葉を選んで言っている様に聞こえる) で、中身はご存知の通り、渡辺謙演ずる主人公が49歳にしてアルツハイマー病になり、早期退職の形でやめ、記憶をどんどん失っていく話。 どんどん記憶をなくしていく主人公に、献身的に外で働き、夫を介護する妻。もちろん、ご多分に漏れず、主人公も会社人間で家族のことは妻にまかせっきりで、娘がぐれようが大学試験に落ちようが接待やら何やらで家庭を顧みない。それでも、妻は家族だから、記憶をなくしていく夫に尽くそうと、外でなれない仕事をし、家に帰れば帰ったで夫の晩御飯も作る。妻もいつ倒れてもおかしくはない。さらに、夫は記憶をなくしていくことに苛立ち、離婚しようといってみたり、遅く帰る妻が浮気でもしているのかと疑ってみたり。(一応、主人公の根は性格のいい人なので、自分が妻の負担になっていることに罪悪感を感じている) そんな妻に友人でもあり社長でもある人からナースホームのパンフレットを渡される。最初は拒否してもやっぱり受け取る妻。がんばりたいけれど、現実はやはり厳しい。パンフレットを家に隠しておくのだが、ふとしたことから発見する夫。で、行ってみることに。 その介護施設のある奥多摩付近は、夫婦が出会った陶器窯の場所でもある。で、昔の窯にふらふらとたどり着いた主人公。幻影と現実の狭間をさまよって、窯でマグカップを焼いて一晩明かす。で、山を降りようとする途中で、妻にであう。ほっとする妻に、誰かと問う夫。思わず泣いてしまう夫と共に妻は山を降りる。 高齢化社会がどこよりも速く訪れる日本にとり、決して決して他人事に観られない映画である。確かに、還ギャルなどといってリッチな高齢な方たちの消費を促すことで経済の活性化に貢献するのは、そうだろう。だが、その一方で自分からは消費できなくなったとき、他人の介護を必要となるときもまた、そのうちにやってくる。 そして、核家族化が進行して、若いときに老いが身近ではなくなっている社会は、どうやって老い、体の衰えと精神的に向き合っていくのか。 そして介護には他人が必要だ。では誰がするのか?家族がやればいいけれど、100%負担は既に非現実的だ。そのときに、大量の労働者を必要とする。その労働者はどこに?日本の若者を皆介護者にするわけにもまたいかない。となると、移民を受け入れざるを得なくなってくる。だが、日本の移民制度はどうか? その分野をあまり調べたことはないが、最近のフィリピンとのEPA(FTAに人の移動なども含める)を検討中(あれ、できたっけ?)。全くやっていないわけでもないが、間に合うのか?団塊の世代の足腰が立たなくなる頃までに。

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る