我思う、ゆえに我あり

2010/05/18(火)14:54

ルース・ベネディクト著「菊と刀」読了

雑考あれこれ(84)

ようやっと「菊と刀」を読み終えました。他にも読んでいる本があるので、なんだかんだと時間がかかってしまったが、やはり読みにくいからでもあるんだろう。 読みにくいのは、著者の説明にそうだっけ?とか突っ込みたくなるから。違和感を覚えながら読んでいくのはしんどい。 それでも、勉強にはなる。 日本にいったことがないからしょうがないのかもしれないが、もう一歩踏み込もうよ、といいたくなる箇所がいくつかある。 著者は、義理と人情のジレンマについて書いている。ちょっと義理を大げさに人情と対立するもの、として描いている。 何でもかんでも義理は人情と衝突するものでもない。しかも、死に至るまでの義理を描いていたりするので、ちょっと違和感は感じる。 でも、もう少し、なぜ義理がそこまで重んじられるのか、をもっと突っ込んでもいいんじゃなかろうか。 忠義や家名とか、こういうものに道徳概念を植えつけた根幹は、儒教など中国のコンセプトによるものだ。なので、日本人みたいに緻密な人たちが実行していくと、中国から来た道徳概念はどうしても中国人にあうようにできているわけだから、日本人の人情とぶつかることが出てきて、人情の部分を押し殺さざるを得ない。実際、歌舞伎の「元禄忠臣蔵」でも、新井白石がやまとごころとからごころは違う、といっている。 けれど、その一方で、とんち?知恵を働かせて、義理と人情を両立させようとする工夫もまた生まれてくる。 そうじゃないと、大岡裁きの三方一両損なんて、とてもじゃないが理解できない。 案外、昔の人は、そうした工夫をすることを楽しんでいたんじゃないのかな? そうして、どうしても自分の社会で身動きが取れないとなると、やくざの世界という逃げ道が用意されていた。 そこまでいかなくても、江戸時代の社会は、ゆっくりと進化していった時代だから、どこかでちゃんと社会の矛盾の息抜きするところというか、はけ口が用意されている。 お祭りでは普段よりも社会ルールが緩くなって、ガス抜きになっていたり。「無礼講」、酔っ払いには寛大というのも、日本ならではのルールだ。 そういう知恵もちゃんとあって、何でもかんでも、「せねばならない」、「であるはず」というわけではない。また、それが露呈しないようにする工夫も大分ある。おかげで、年長者に質問をしなくなったりもするが。 そうはいっても、アメリカに比べれば、かなり社会ルールは厳しいが。 また、そうやって社会を縛っている以上、どうしても、そのとおりに行かないことがあるわけで、その場合、どうしているのか?というところをもう少し掘り下げてくれていると、もっと面白いのにね。 他にも、突っ込みたいところといえば、なぜ西洋のように日本は、精神と肉体は相対立していないのか、が著者もあまりわかっていなかったのだろう。 日本人は、死ねばみんな仏になるから、そんなに肉体をいじめることに意味を感じない、と描いている。 自己鍛錬には水垢離とかもするけれど、途中までは精神力を高めるために肉体を鍛える。けれど、最後の禅か何かの悟りの境域にいってしまうと、そうはいっても、人間は肉体と精神がくっついているわけであり、離せるものでもない。欲は一生ついて回る。と、どんなにがんばっても超人、或いは神にはなれない、というのが悟りの一つであるわけで、キリスト教のように、最初からアダムとイブの末裔として罪を背負って生まれ、神の前に一生うちしがれなければならない、いわれはない。いうなれば、神が人間をそのように創ったのであるから、その事実を受け入れよ、というところか。 かといって、「無我」の境域は別に著者が書くように、良心を失うことではない。 というより、心のバランスの問題なのではなかろうか。自然の中に人間が生きさせてもらっている、人間は一人で生きている動物でもない、社会との係わり合いが必要な生き物だ。自分、という視点以外に他人の視点、社会の視点、といった、全体像を見ることができる心の余裕、物事の本質をつかむ力、を持つことで、無用にへりくだることもせず、野放図に自己主張をすることもせず、自然体に、あるがままに生きるための、軸を心の中に作るということではなかろうか。 だから、性的欲望も自然な範囲内で許容されるわけで、親鸞聖人からして妻帯者。キリスト教の聖職者のように、童貞を強制する方が不自然だ。(まあ、今は堕落しているが。)キリスト教の肉体をさいなむのが鍛錬という概念から脱却できないでいる著者が、ちょっともどかしい。

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