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カテゴリ:歴史のお話・・勝手な私のひとりごと
![]() 文久2年1862年の時点です。 薩摩藩の藩庁は公式の見解として 今回の島津久光の東上は公武周旋が目的であり他意はない・・としていました。 次々と薩摩に乗り込んでくる各藩の有志・責任者・尊王派・攘夷派・・・そんな人々への説明です。 京都政府の樹立を想像していた志士の多くはがっかりして引き返していきました。 ただし実際に接待にあたっていた有馬新七たちの中には 海面下で個人の資格で尊王討幕を密議していた者たちもいました。 この時点ですでに大久保ら精忠組は薩摩藩の中枢に入り込んでいます。 久光の信頼を得ていた・・・そういうことです。 ただしこの時点で実質上の責任者西郷吉之助はまだ奄美大島にいて 国父久光の赦しが出るのを待っています。 名を変えて奄美にいました。 死んだものとして幕府には届けられていたわけです。 例の月照との入水未遂事件の処理です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年06月10日 02時16分08秒
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