雪月花

朝は、ゆうべ買った食パンにチーズを乗せて焼いてから
同じくゆうべ買ったハムを乗せて食べた。
コーヒーに入れるミルクがソイなのも懐かしい習慣。

洗濯をしてから、ママチャリで探索に出かける。
こぎれいな賃貸住宅がちらほらと新しく建っていた。
前は、何があったんだっけ。

角にある酒屋で怪しげな炭酸水を買う。
冷たいけど、フレーバーが嘘みたいに臭い。
トイレにいるみたいな味がする。

大学に寄って灰皿を借りる。
私がスモーカーなのは彼も知っているが、
彼はひどい嫌煙家なので、彼の家ではひと吸いもしないのだ。
大学を裏門から出て、住んでいたアパートがまだ在ること、
そして私の部屋に確かに誰かが住んでいることを確認する。

関東県のドラッグストアでしか見かけない耳かきを二箱買って、
バンドエイドのヒール用パッドを買って、
それから本腰を入れて馴染みのスーパーへ。

前々から頼まれていた「暴力カレー」を作る約束を果たすのだ。
要になるガラムマサラのペーストは、はるばる広島から持ってきた。
よほど楽しみにしていたのか、間新しい調理器具が
キッチンの引き出しの中にぴかぴかに揃っているのが微笑ましい。

たっぷり作るつもりだったから、まずタッパーケースを買う。
それからトマトと、トマト缶と、タマネギと、しいたけと、
セロリと、生姜と、にんにくと、レモンと、手羽先と手羽元と、
クミンパウダーとクミンシードと、唐辛子と、黒こしょうの粒と、
固形コンソメとドレッシングとお米。
サラダ用に茗荷と水菜と油揚げ。

どっしり重たくなったカゴも何のその、
昨日みたいに本気でサイクルしたら風が心地良かった。

部屋に戻って、さっそく調理を始める。
４時間後、だいたいカレーが出来上がる。
そこへ後輩から電話が掛かってきた。
「よかったら練習を見にいらしてください」

おそるおそる地下の練習室へ顔を出すと、
口々に「本物だ」と言われて非常に恐縮する。
私のCDやビデオを何度も見ているらしい。
「それはやめてください」とおずおず頼んだ。

私が顔を出すことがメーリングリストで回っていたらしく、
次々に顔も名前も学年も楽器も音も知らない人達が集まってくる。
私の人見知りっぷりを存分に披露したところで、
サックスの子たちだけと話しに３階のテラスに行く。
灰皿がある。

１時間ほども話したろうか、２年生の女の子のソロを見ることに。
２時間か３時間、つきっきりで居たら、見違えるようになった。
音そのものは勿論、彼女がしきりに「楽しい！」を連発するようになった。
私のサックスの吹き方も練習の仕方も非常にいい加減だけど、
後輩が音を出す楽しさを知ってくれたのは本当に良かった。
ちょっと役に立てた気がした。

20時を回ったところで部屋に戻る。
ご飯が炊けているのを確認してからカレーを温めて仕上げる。
洗濯物を取り込んで、畳む。
リビング以外にはカレーの匂いがこもらないように注意しながら。

彼が仕事から戻ってくる。
「何もしなくていいのか」と改めて気付いたように言う。
「何もしなくていいよ」と返して、水菜をざくざくと刻む。
それから細く細く茗荷を千切りにする。
コップについでもらった赤ワインを飲む。

サラダを出すと、食べ始めた音が背中に聴こえる。
カレーライスを盛って「お待ちどうさま」と皿とスプーンを出す。
「MUCHOS GRACIOUS。うまいうまい」ともりもり食べる姿が可愛い。
なんとかWOODという渋いワインを開けてくれた。
この瓶は、一晩で空になることになる。

ご飯を食べて、レコードの部屋に行く。
どれも同じように聴こえるけど、どれも聴いたことのない音楽。
もう私なんかがサックスなんて持てないと思い知らされる音楽。
SOUL SEXがいちばんいいけど、
それじゃ露骨すぎるからSOUL SAXという名の店を出そう、と彼が言う。
そこではいつも、60～75年くらいまでの濃くて甘くて命に満ちた音楽がかかっている。
冷えたビールと赤ワインと美味しいコーヒーがあって、
ピクルスと、辛いカレーと、でかいハンバーガーがメニューにある。
ぴちぴちではないがまだ若い黒髪の変な女店主と、ぴちぴちの若いウェイトレスが居る。
古いレコードのライナーの粋な訳も読めたりする。
大人がこっそり入り浸って、大人になりたい大人未満も居着くようになる。
そうして誰も聴いたことがない音楽がみんなを幸せにする。
そんな、小さな店。

禁煙にするかどうかは、まだ決めていない。

お腹いっぱい音楽を聴いてから、背中を流してあげる。
代わりに私は髪の毛を洗うのを手伝ってもらう。
しばらく美容院に行っていないから、新鮮だった。
長い髪を扱い慣れていない、ごつごつした手つきも。

ふたりとも疲れて、静かに眠る。
BGMは寝息と、寝返りを打つ布の音。
開けっ放しの窓からは、秋の夜が入ってきた。