平和は戦争より難しい
5時に起きて広島へバスで向かう。今日という日であるせいか、市内の道路が混んで到着が少し遅れる。会場に着くとびっくりするような人混み。学生闘争みたいな拡声器軍団やら、パッチワークで平和のメッセージをつくる人やら、鯉のうろこ型の色紙にサインしてそれを鯉のぼりに貼付ける人やら、決して祭ではないがまるで祭みたいな特殊なにぎわいがあった。「おはようございます」とボランティアの人たちが、まるで近所の人にするようにごく自然に挨拶をしてくれた。車いす介助のグループらしき年配の女性たちが、「英語が話せたらよかったのに」と話していた。助けになりたいと思ったが式典に参加したいので、なんとなく後ろめたいまますれ違った。今もなんとなく後ろめたいままだ。曇り、時々晴れ。平和の灯火に向かって右側にいたが、スピーチの始まる頃には碑の正面に移り、式次第を手にスピーチを聴いた。こどもの。市長の。知事の。総理大臣の。国連議長の。国連の他の誰かの代読の。市長のはいただけなかった。「オバマジョリティ」だの「Yes, we can」だの言う。オバマが大統領でなくなったらどうするつもりなのだ。彼の任期はまだ始まったばかりだというのに、気の長いような、他力本願(他言借言?)のような。何より、主体性や切迫感、或いは現実味が無かった。毎年同じようなこと言ってるんだろうなと思ってしまった。流行に乗っかったような借り物のメッセージは、後半から選挙演説みたいになった麻生太郎のスピーチと同様、なんだか虚しかった。その点、国連議長のは気に入った。「国連の者としてだけでなく一人のクリスチャンとして」彼は平和を訴えた。彼は自分のスピーチに関して「個人的」でもあると言い、日本には「the role of moral authority」があると述べた。この言葉は心に残った。それにしても、献花のときに演奏される音楽が異常に不気味であった。鳩が放された。式典が一通り済むと、総理大臣は公園すぐそばの車に乗り込んだようだった。一方、舛添大臣、鳩山氏、ほか政治家や海外からの来賓はまっすぐ参加者の中を抜け、資料館の下をくぐって大通り沿いの車まで歩いていった。私はそれから川沿いで一服した。「チェーンスモーカー」と母はたしなめたが、「1本目は私のため、2本目はお供え」と私は言った。「煙草が好きな人も沢山いただろうにねえ」と母も頷いた。目黒区から来たという小学生にインタビューされた。「どうして式典に来たんですか」と尋ねるから、私は「今まで来たことがなかったから。それに、イッセイミヤケのこともあるし」など、ここに来る動機付けになった条件をいくつか説明した。いっせいみやけ、と小学生が一生懸命ひらがなでメモを取っていた。最後に、「平和は戦争より難しいと思う」と言うと、難しそうな目で私を見た。それから母と、川を挟んだカフェで休憩した。きれいで安全な場所に居ることが少し居心地悪かった。でも何のかんの言って、ビールとワッフルを頼んだ。甘いものとお酒も、どこかで弔いになる気がした。原爆の落ちた後は遺体で埋まっていたという川から、オープンテラスに涼しい風が流れこんだ。参拝者の列が少し短くなった頃を見計らって、私たちは平和公園に戻ってお祈りをした。ひとつ前に並んでいた女性は京都から来たのだと言う。早いけれど長崎にも行ってきた、広島のも初めてだ、「今日が私の終戦記念日」とだけ彼女は言って、多くは語らなかった。だから、彼女がどうして少し涙ぐんでいたのかは知れない。いったん列を離れて、私たちの分まで号外を取ってきてくれた。平和の鐘まで歩いて、一度、鐘を撞いた。「己を知れ」という文字と、世界地図が彫ってある小振りな鐘だった。私が撞き終わると、白人の一行がりっぱな集音マイクや反射板、カメラの大きいのを持って鐘の台に上って、あれこれとしていた。それを台の下から見ている初老の白人男性に私は話しかけた。「すみません、あの人たちとご一緒の方ですか?」と聴くと「そうだよ。あ、君も鐘を撞きたいの?」と言う。「いや、私はさっき撞きましたから。 それより、これは映画の撮影か何かですか?」「そう。平和についての映画をとってるんだ」「スティーブン・オカザキみたいな原爆の映画?」「というよりも、もっと平和全般に関わる映画だ。 ここでとっているシーンは、そのごく一部だよ」「いつごろ完成する予定なんですか?」「来年の暮れかな。それから世界中を回る」「アメリカ映画?」「いや、カナダだ」「色々訊いてすみません。何をしているのか気になって」「いいんだ」監督の名前や映画の名前も聞いておけばよかった。今年、ヒロシマ平和映画祭があることも話せばよかった。ただその時の私は、「それ」が遊びではないかどうかだけが知りたかったのだ。だから、彼の真剣な口ぶりに安心して、それきりにしてしまった。それに、私はカナダと戦争との関わりについてあまりに無知であった。原爆の子の像のところへ行くと、像のモデルになった佐々木貞子さんの兄が居た。その息子が、「歌で平和をアピールしています。1曲歌うので聞いてください」と言う。20人ばかりが集まって、彼の歌を聞いて、また散らばった。すぐそばでは、彼女の生涯を紙芝居にして語るお婆さんがいた。紙芝居は「1本のエンピツ」の美しい歌声で締めくくられた。そういえば、式典の式次第には普通の折り紙を4分の1のサイズにしたのが挟まっていた。折り紙はどれも、金色だったようだ。式次第には鶴の織り方の手本絵も挟まっていた。「記念に一羽折って、回収ボックスへ入れてください」とあった。一羽折って入れたが、「今日の記念にもう一枚頂けますか」と頼んだら「ええ、いいですよ」と快くもう一枚の折り紙をくれた。これは、今日の記念に保管しておくことにする。3割は外国人なんじゃないかと思うくらい、外国人が多かった。平和公園を出てアーケード街へ向かうと、そこはいつもの広島だった。今日の「ヒロシマ」体験は、たぶん私の心に残ると思う。平和はもちろん構築・維持しなければならないものだが、そのためにどうするか、どういうスタンスに立つかは、今日の体験だけでは定まらなかったように思う。色々な人がいる、沢山の方法がある、ただそれだけを目にして圧倒されたというのが正直なところである。母は、「何だか分からないけど来年も行きたい気がする」と言っている。以後、私が平和やそれに関することについてどういった思想を持つか、それは今のところ分からないので今日はできるだけ事実だけを記しておく。何かを思うようになった時、このメモが役に立つといい。あと一つだけ思い出せるがままに。原爆についての詩で、きょう初めて知ったものがあった。 げんしばくだんがおちると ひるがよるになって 人はおばけになる (坂本はつみさん・小学3年)