2007/11/09(金)11:39
48. 素直に見詰めて
48. 素直に見詰めて
「鉄兵…。」
私を見付けると、淳一は側へ遣って来た。
「お前、美香と別れたんだってな…。」
「ああ…。」
既に3限の授業が始まっている時間であったが、学生ホールは昼休みと変わらぬ賑わいであった。
「どうして、俺に隠してたんだ?
昨日、大変だったんだぜ…。」
「別に隠してた理由じゃないさ。
唯、云うのを忘れてただけだ…。」
「本当か…?
昨日、サテンで大妻の美香の仲間等に偶然逢ってな、明るく声を掛けたら、いきなりお前の事を訊いて来て、ずっと吊し上げに遭ってたんだぜ。」
「大妻の連中って事は、お前体育の後でこっちへ来たのか?」
「ああ。」
「いつもの自由ケ丘や代官山へは、どうして…?」
「だって、お前は全然姿を見せないし、西沢は用事とか云って真っ直ぐ帰っちまったから、野口と先生とじゃ非力だろ…?」
「そうか…、悪かったな…。
美香も居たのか…?」
「否、彼女は居なかった。
まあ、円満別離って事だそうだけど、彼奴等は納得出来ないとか云って、偉い剣幕なのさ。
本人が納得しちゃってて何も云わないのが、余計腹立つらしかったな。
先生と野口なんか、途中で逃げ出しちまってさ、最後は俺1人で、本当、参ったぜ…。
ホーム・グラウンドで楽に行こうとしたのが、裏目に出たって事なんだけどな…。」
「…本当に済まなかった。
謝るよ…。
外へ行かないか?」
「好いぜ…。」
私と淳一は狭いキャンパスを抜けて、外の喫茶店へ行った。
「其れからな…、みゆきとも切れたんだ。」
「みゆきって…、フェリスの?」
「ああ。」
「どうしたんだ?
お前…。
自分の大学を顧みる事を、忘れ始めたのか?
…まあ、思い切った新陳代謝も好いだろう。
そう言う時期なのかも知れない…。
じゃあ、今夜辺り出掛ける積もりなんだろ?
付き合うぜ。
俺も新しい気分で…。」
「否、違うんだ。
当分、補充の必要は無い…。」
「何だ、もうニュー・フェイスが居るのか。」
「否…。」
「香織ちゃんに操でも立てる積もりか?
あの娘、俺にはきつい事しか云わんけど、まあ、お前が…。」
「香織とも近い内に別れようと思ってる…。」
「…。
そうか…。
お前も大変だな…。
然し辛抱するより仕方無いさ。
何、1年なんて長い様で過ぎてみれば、あっと云う間だ。
ところで、こっちが俺の水だったよな…。
否、大丈夫なのは解ってるが、一応な…。」
「云っとくが、俺は変な性病に感染した理由じゃねぇぞ…。」
「世樹子ちゃんだな…。」
「うん…。」
「俺はずっと前から、何れお前は彼女と付き合う事になる様な気がしてた。
今迄にそうならなかったのが、不思議な位だ。
確かに彼女は綺麗だもの…。
つまらん事を云うが…、俺は中野ファミリーの、あの3人の中で彼女が一番可愛いと、一目視た時から思ってた。
でも…。
気にする事は無いさ…。
たまには、女に入れ込んでみるのも悪く無い。」
「今月に入って、気が付くと、『清算』って言葉が思考の中に現れてるんだ。
そして、ずっと離れないんだ。」
「清算か…。
未だ、よく認識出来ないんだろうが…、いいじゃないか…。
其れが彼女の存在に因る、心の叫びであったとしても…。」
「確かに、よく解らないんだ…。
清算したくなった事は、俺達は未完なのだから仕方無いと思ってる。
多分、此れからも、何度も清算を繰り返さなければ、完璧な状態を造り上げる事なんて出来ないだろう。
唯、時期が…、良くなかった…。
彼女の存在を認識した後っていう…。
若し…、そうだとしたら…、…最悪だな。」
「…確かに、…最悪だが、…矢張り、認識すべきだよ。
お互い、解ってた事なんだから…。
清算の中に彼女が入ってない以上、其れは間違い無い。
偶然なんかじゃないさ。
彼女の存在からの必然に因るものだ。
はっきり云って遣るよ…。
お前は彼女に入れ込んだのさ。
そして其れを認識した心が、プラトニックを求め始めたんだ。
お前は…、お前の心は、彼女1人を愛そうとしてるんだよ。」
「もう…、駄目だな…。」
「ああ、駄目さ。
初めから、俺達には無理だったんだよ。
お前だって解ってた筈さ。
俺達が造り上げようとした、…其れは、幻想に過ぎなかったんだ。
否、そうでは無いんだろうけど…、俺達には無理だったのさ…。
クールにさえ、なれなかったんだ…。
勿論、諦めはしないけど…、もう気にするのは、止そう。
気にする事は無いさ…。」
「どうしても駄目なんだよな、俺達って…。
好い線迄は、行き掛けるんだけどな…。」
「ああ…。
結局、俺達は、カッコ良くは成り切れないのさ…。」
私は淳一にボンゴレと珈琲を奢り、我々は喫茶店を出た。
「今夜、久しぶりに一緒に呑まないか?」
淳一は云った。
「今夜は約束が有るんだ。」
「世樹子ちゃんか?」
「ああ。
でも…、」
「否、いいんだ。
合コン・ラッシュがやっと退いた後だし、学祭が始まれば又厭と言う程、呑まなきゃだからな…。
彼女を素直に見詰めてみる事さ。」
「お互いな…。」
我々は学生ホールへ戻って行った。
秋の夕暮れは短く、階段を上って新宿駅の東口に出た時、外はもう暗かった。
私は「マイ・シティ」の建物沿いに南へ歩き、直ぐ隣のビルの地下1階へ下りて行った。
喫茶店の中へ入った時、天井の照明は半分落とされていてテーブル・ライトに替わっていたが、社会人客の多い其の店の中で、学生風の世樹子は直ぐに見付ける事が出来た。
「ねえ…、鉄兵君はどうして毎回待ち合わせ場所を変えるの?」
「ランデブーの場所に、前以て張り込まれない為さ。」
「細心なのね…。」
「あれ、本気にした?」
「勿論、してないわよ。」
「…同じ場所の方が好い?
変えた方が愉しいと思ったんだが…。」
「私はどっちでも構わないんだけど、ヒロ子に話したらね、普通は二人だけの待ち合わせ場所を決めるんですって。
凝ったカップルになると、其の店の壁際の奥から2番目のテーブルとかって細かく指定するそうよ。
私、驚いちゃった。」
「俺は市ヶ谷から、君は代々木から電車に乗って、二人共帰るのは中野で、だから新宿で落ち合ってる理由だけど、自然の成り行きでそうなったけど、新宿って場所はもう決まってるじゃない。
唯、想い出を拵える為には、違う場所から、其の日の二人が始まってた方が好いと思うな。
トレーナー発表会の時、柳沢が云った様に…、昨日と2日前の区別が付かなくなるのは、厭なんだ。
同じ場所で逢ってたら、忘れてしまい易くなる…。」
「矢っ張り、細心なのね…。」
「ねえ、鉄兵君、誰に『悪い男』って云われたの?」
「え?
ああ…。誰だと思う?」
「どうせ、私の知らない人でしょうけど…。」
「フー子だよ。」
「…フー子ちゃん?」
世樹子は少し愕いてから、笑った。
私は2日の夕方、中野駅でフー子に偶然逢った時の事を話した。
「どうして、フー子に俺達の事を云ったの?」
「え…?
いけない事だったかしら…?」
「否、そんな事ないけど…。」
「実はね、フー子ちゃん、彼と駄目になっちゃったのよ。
完全に…。
其れで、彼女の話を聴いて挙げる為に逢ったの。
先週の土曜日。
中野に帰って来た時、彼女、もう少し一緒に居て欲しいって云うから、彼女のアパートに行ったの。
三栄荘へ行けたらって思ったのよ。
賑やかになれるから…。
でも、約束してない限り、柳沢君も土曜の夜は部屋に帰ってないでしょ…?
彼女の部屋で2人で喋ってる内に、何と無く、自分の事も云っちゃったの。
其れからは、逆に彼女が私の話をずっと聴いて呉れて、其の日は、私が話を聴いて挙げる約束だったのに…。
私、泊まって行く事に決めて、彼女のベッドに2人で入って、眠くなる迄、ずっと…。」
私は眉を寄せて、世樹子を視た。
「云いたい事は解ってるわ。
私達、身体の交渉は無かったわよ。」
「君とフー子がレズであったとしても、俺は構わんさ。
唯、俺は、ベッドが心配で…。」
「ベッドも壊れなかったです…!
朝迄…。」
前日迄の素晴らしい好天の反動か、其の日は午前中迄残っていた余韻が醒めると、後はずっと、どんよりしていた。
そして宵に入って、静かに雨は降り始めた。
中野駅の改札を出た時、アスファルトの上に打ち突ける強い雨足を視て、私は云った。
「ひでぇ降りになって来やがったな…。」
「そうね…。
でも、もう、お店に入るのは止しましょ…。」
「…支払いの時、俺の財布を覗いただろう?」
「御免なさい…。
私に奢らせて呉れるんなら、行っても好いわよ。」
「色男、何とやらだ…。」
「あら、鉄兵君は全然バイトしないのに、そんなにお金が続いて不思議だわ。」
「俺も不思議だ…。」
傘を開いて、二人は歩き始めた。
激しい雨音は、走り行く車の音を掻き消していた。
そして二人には、帰る場所が無かった。
「フー子ちゃんの処で雨宿りさせて貰いましょう…。」
「でも…。」
「あら、厭…?」
「厭じゃないけど…、彼女に迷惑ではないかと…。」
私には未だ、世樹子が我々の関係をフー子に明かした事に就いて、疑問が残っていた。
「らしく無い事云うのね。
大丈夫よ、どうせ私、渡す物が有るし…。」
我々はフー子のアパートへ向かった。
フー子の部屋には明かりが付いていた。
「何だ…、世樹子…。」
ドアを開けて、フー子は云った。
「あら…、鉄兵も…。」
「どうも…、悪い男です。」
フー子は口に手を当てて、笑った。
「何?
其れ…。」
「フー子ちゃんが鉄兵君の事、そう云ったんでしょう?」
我々は靴を脱いだ。
「ええ?
そんな事、云ったっけ…?」
フー子はカーペットの上の雑誌を取り上げ、テーブルの上を素早く片付けた。
世樹子に続いて、私も腰を降ろした。
「珈琲が丁度、切れちゃってるの。
紅茶でも好いかしら…?」
立った儘フー子は云った。
「好いわよ。」
「鉄兵は?」
「何でも好い…。」
「さっき迄ね、香織が来てたのよ。
此処に…。」
ティー・カップを2つテーブルの上に置きながら、フー子は云った。
私は反射的に膝を突いた。
「もう帰ったわよ…。」
「そう…、用事だったの?」
世樹子が云った。
「ええ。」
「ねえ、フー子ちゃんの紅茶は?」
「私のは、此れ…。
二人が来る前も、飲んでたのよ。」
そう云ってフー子は、スプライトの入ったコップを自分の前へ置いた。
「実はね、此の部屋で少し雨宿りをさせて欲しいの。」
「もう、してるじゃない。」
「そうね…。
私達、雨の中で何処にも行く処が無くて、困ってたの。」
「…成程。
三栄荘へも飯野荘へも二人で行く理由には、いかないものね。
解ったわ…。
私が、あなた達を匿って挙げる。
今度から、いつでもいらっしゃい。」
「有り難う。
其れから、頼まれてたの…、今、持ってるから渡しとくわね。」
世樹子は自分のセカンド・バッグの中からカセット・テープを取り出し、フー子に渡した。
「あ、もう録って呉れたの?
有り難う…。」
〈四八、素直に見詰めて〉