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カテゴリ:まちづくりな話
以前、「安心できる街」と題して、小さな変化を許容しつつも、あの頃のあの風景が変わらずに守り育まれている街が“安心できる街”の一つの尺度になるのではないかと書いたんですが、同じように、そこに昔からあった営為が、そこで変わりなく存在し続けていることも、安心できる街の一つの尺度になるのではないかとぼんやり考えています。それは恐らく人によって異なると思いますが、「学校」「夏祭り」「駄菓子屋さん」時に「頑固親父」だったり…。多分、多様です。
手前味噌ですが、僕が関わってもう10年になる地元の少年サッカークラブ「FC.SEISEKI」も、そこを巣立った子どもたちにとっては、6年間サッカーに明け暮れた日々が、多分心のどこかに心象風景として焼き付けられていて、そこに存在し続けることが、彼らの精神世界に少なからず影響しているのではないかと思っています。 かつての風景を未来に継承することと同じくらい、この風景をよりどころとして営まれる人間の営為も、僕たちが安心してすこやかに生きていくための基本条件なのではないかと思われます。風景、その一部を形作る場所と人々の営為は、僕の推測に過ぎませんが、子どもたちのみならず僕たち大人にとっても、自分を相対化して見ることを教えてくれる貴重な体験場のような気がします。 あの頃あの場所で、多くの人に見守られながら僕は育った。そしてそのおかげで今の自分がいる。数年、数十年経ってその場所に身を置いたときに感じる自分の肉体的・精神的成長。あるいは未熟さ。そんな様々な感傷を全て受け入れ見守ってくれるのが、多分風景なのではないかと思います。 だから今を生きる僕たちには、未来に今の風景や営為を継承する責任を持つ必要がある。子どもたちの心象風景を奪う権利は僕たちにはありませんし、あってはならないと思います。 僕が何のために少年サッカークラブに関わっているのかなって、ふと考えることがありますが、とどのつまり、子どもたちの帰る場所、あるいは、ふと自分を見つめてみたくなるときに、昔の自分を思い起こさせる場所を守るために続けているのかもしれません。と言うとかっこよすぎで恥ずかしくなりますが、正直に言うと、実は僕も僕のかつての僕を忘れないようにするためにサッカーを続けているような気がしています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005/10/16 05:27:01 PM
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