カテゴリ:教育一般
「親学」提言のポイントには「子守唄を聞かせ」とあるが、はたして今の親たちは子守唄を歌って聴かせてやらないのか若干の疑問がある。毎日欠かさず子守唄を聞かせてはいる親は少ないかもしれないが、一度も子守唄を聞かせてやっていない親も少ない。今の親たちが歌っている「子守唄」は、提言者が期待しているかもしれない、日本古来の子守唄ではなくとも、親自身のお気に入りのそれでいて子守唄代わりになる素敵な歌を聴かせてやっているかもしれない。
考えれば、親に子守唄を歌ってもらったてはいても、その記憶のある子は稀だろう。私も、歳の離れた弟がいるので、その弟のために母親が子守唄を歌っていた記憶はあるので、私自身もそうだったのだろうと思うだけで、自分自身のそれは記憶に無いのだ。少子化の今、そうした弟や妹が子守唄を歌ってもらっていることを見聞きするこどもたちも少ない。だから、こどもたちに「子守唄を歌ってもらったことがあるか」と聞いても、「無い」と答えることが多いかもしれない。 また、すでにそうした実際に子守唄を聴かせてやっている情景を見聞きしていない親たちも増えてきているが、そのこととそんな親たちが我が子に「子守唄を聞かせ」ていないかといえば、必ずしもそうではないだろう。「子守唄」を知っている親なら、きっと優しく歌ってあげることだろう。たとえ、その回数が「親学」提言者のお気にいらなくても、それはそれなりの事情があり、それを察してはじめて良い助言ができるのではないだろうか。 ここであらためて強調しておきたいのは、提言者はあまりにも一つの価値観を押し付けるきらいがある。その一つが「子守唄」なのだが、自分の意思とは全く無縁に、声を出したくても出せない親たちも多い。もちろん、どんなに願っても「子守唄」を歌ってはやれないが、こどもの背中をリズムを取って「トントン」と優しく叩きながら、我が子が健やかな眠りに入るのを暖かいまなざしで見やる素晴らしい親たちがいる。そのことを忘れてはいけないだろう。 時には、「子守唄」も「母乳」もともに、心ならずも不可能な状況にある親もいるだろう。しかし、そのことが決してこどもたちの思わしくない成長や不幸な将来を意味するものでないのも、また厳然たる事実だ。もし提言者が、こどもへの限りない愛の象徴やスキンシップのシンボルとして「子守唄」と「母乳」を例示したのなら、その例示ですらこのようなダブルでハンディを背負っていただいている親たちとそのこどもたちへの限りない侮辱となるだろう。 エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。 遊邑エッセイ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.05.09 16:03:12
コメント(0) | コメントを書く
[教育一般] カテゴリの最新記事
|