近隣窮乏化政策
「アベノミクスは本当に近隣窮乏化政策なのか?」 という議論が国際的にはなされている。「やむをえない」という意見は多いが、やはり、通貨安競争となりかねない、という危惧が高まりつつある。 近隣窮乏化政策の古典的定義は、1937年に英国の経済学者ジョーン・ロビンソンによって提示された。日本やその他の先進国で追求されている今の政策を考えると、これは再考する価値が十分にあるだろう。 どんな国にとっても、輸入に比べて輸出を増やすよう誘導することは、その国の雇用拡大につながるとロビンソンは述べた。当初の雇用増加に加え、新たに雇われた労働者が使うお金から2次的な増加が生まれる。彼女が指摘したように、問題は「その他の条件がすべてが同じ」なら、ある国の輸出増加は他国の輸出減少につながることだ。 良くても「世界全体の雇用水準には何の影響も与えない」し、恐らくは世界全体の雇用を減少させる。 予想される結果に関するロビンソンの説明も思い出す価値がある。「ある国が他国を犠牲にして貿易収支を改善させることに成功するや否や、他国が応酬」し、世界の活動に占める割合で見た国際貿易の規模が縮小するとロビンソンは書いた。「政治的、戦略的、感情的な判断が火に油を注ぎ、経済ナショナリズムの炎が一段と燃え盛る」 ロビンソンは、これを国内投資によってもたらされる国内雇用の増加と対比させ、国内投資は「世界全体の雇用の純増をもたらす」と述べていた。 今は「国内投資」の代わりに、純粋な内需刺激策を代用することができる。このような刺激策を抑制する財政均衡の教義への固執が、近隣窮乏化政策の魅力が継続している理由の1つだ。 ここ数十年間の割と希薄な数学的貢献とは対照的に、1930年代の論文の妥当性が続いていることは、それ自体が不吉な兆候だ。 ロビンソンは元々の論文で、近隣窮乏化の4つの武器を挙げていた。当局の誘導による為替レートの切り下げ、賃金の引き下げ、輸出補助金、輸入制限 誘導された為替レートの切り下げは、今最も注視する必要のある要素だ。 言うまでもなく、こうした手段はどれも国際通貨基金(IMF)や世界貿易機関(WTO)、欧州連合(EU)その他の国際機関によって禁止されている。だが、こうした禁止は実際に効果があるのだろうか? 判断が難しいのは、ほとんどの雇用促進政策が、純粋な国内景気刺激策と輸出促進策が入り交ったものであることだ。英国の首相が英国製品を売り込むために発展途上国を訪問するのを止めるとしたら、それは失礼というものだろう。 近隣窮乏化の問題は、日本の新政府が打ち出した国内景気拡大策との関係で、より真剣に取り上げられるようになった。 日本は、米国を除くG7諸国の中では、緊縮を唱える息苦しい主張を拒否し、国内の成長を促すための対策を取った最初の国になった。 日本は国内経済拡大策を必要としているし、それをやるだけの財力も十分にある。日本の国内総生産(GDP)は2007年のピーク水準をまだかなり下回っているし、そのピーク時以降、平均すると物価水準は下落してきた。 日本の新しい景気拡大策の最も重要な側面は恐らく、2.3%という今年度の経済成長率の政府目標を後押しするための新たな大型財政刺激策だろう。日銀は多かれ少なかれ、その財源の穴埋めを余儀なくされる。 ドイツの指導者たちは躊躇せずに、日本の対策は近隣窮乏化政策の一種だと非難した。だが、果たしてそうだろうか? 日本の政策はまだ作成途上だ。その最大の目玉は、インフレ目標を年間1%--日本は明らかにそれを下回ってきた--から2%に引き上げることのようだ。 雇用とインフレの間のトレードオフは、どんなものも本来一時的であるため、ケインズ主義の景気刺激策を提示するのに、このような方法は選ばない。だがそれが、より拡張的な金融政策を明確に伝える政治的に都合のいい方法であるのなら、それはそれでいいだろう。 国際的に議論を呼んでいる政策の側面は、口先介入によって円を安値誘導していることだ。 円は2011年のピークから下落している。 そのこと自体は悲惨なことではない。バンクオブアメリカ・メリルリンチのエコノミストらは、円の対ドル相場が名目ベースでは歴史的な平均値に近く、実質実効ベースでは危機以前のピーク水準をかなり上回っていることを示している。 ドイツの懸念は結局のところ、競争力を強めた円がもたらす中国向け輸出への脅威という具体的な心配に根差している可能性が十分ある。 それでも日本政府は、円安を目指す取り組みが言葉の範囲を超えないよう注意する必要がある。 最も厳密な監視を必要とする要素は、円相場が反発するのを防ぐために日銀による外国債券の購入を望む、かなり露骨な政府の願望だろう。もっとも、発展途上国のかなりの資産を買い占めるために中国が国際収支の巨額黒字を使っていることに比べれば、悪いとは到底言えないが・・・。国際経済は、通貨戦争に持ちこたえるには、あまりに脆弱過ぎる状態にある。