バス停地名学のすすめ

2009/09/16(水)09:37

第368回 【都電の残像編(22)】 二ノ橋(にのはし) 後編

港区(40)

(前回からのつづき) 二ノ橋を渡ると、道はすぐに三田の高台へ上る急坂となりますが、これを日向坂と呼びます。江戸期、近くに毛利日向守の屋敷地があったことに因む名で、二ノ橋にも日向橋の別名がありました。一方で、橋の西側には間部若狭守の屋敷があったため、間部橋と呼ばれることもあったといいます。同様の事例は三ノ橋にもあり、松平肥後守の屋敷地に近かったことから、肥後橋の別名がありました。 二ノ橋から古川の下流方向を眺めると、首都高速2号線に蓋をされて薄暗い川面の奥に、小さな小山橋の姿が見えます。一ノ橋と二ノ橋の中間の橋で、欄干の低い桁橋ですが、その桁の中央に大きく「小山橋」と表示されています。三田の高台北部で古くから使われてきた小山の地名が、こうして橋名として残されている姿を見るのは、私のような散歩者にとっては嬉しい眺めです。 古い地名といえばもうひとつ、小山橋西詰に設けられている小さな公園に新広尾公園の名があるのを見つけ、驚かされました。麻布十番に近いこの場所で「広尾」の地名は違和感がありますが、実は昭和40年前後の住居表示の施行前まで、古川の一ノ橋から上流の天現寺橋に至る川沿いに、約2キロに及ぶ帯状で細長い新広尾町という町域がありました。明治期に広尾周辺の住民が移転して飛び地のような格好で形成されたものと思われ、当時の広尾町の番地が79番地までだったのに対し、新広尾町は80番地から始まっていたといわれます。 バス通りに出て二ノ橋へ戻ります。歩道の脇を注意して見ていると、「にのはし」と刻まれた旧橋の親柱が保存されているのを見つけました。現在の橋のひと世代前、昭和10年に改架された鋼鈑橋のものと思われ、都電時代の二ノ橋を見つめてきた貴重な遺構を前に、しばし目を細めて立ち止まってしまいました。 ↑↑↑ブログランキング参加中です。

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