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『魔女狩り』森嶋恒雄 岩波新書
教会の「魔女」に対する態度の変化(寛容から焚刑へ)が、異端裁判との関係で説明されます。 魔女の実在を信じて審問に当たった人たちの証言、無実の罪で告発された人たちの証言、そして「魔女狩り」という暗黒裁判に抗議した人たちの姿が描かれます。カトリックだけではなくプロテスタントも魔女狩りには熱心であったということは、「宗教改革」というものについて考えさせられますし、「ルネサンス」の影の部分もあばかれます。
1628年6月28日 裁判官ブラウン博士はユニウス55歳に対し拷問を用いることなく尋問。被告は、「その告発は事実無根である。自分を魔女集会で見たと言うものの名を知らせて欲しい」と要求。そこでゲオルグ・ハーアン博士と対決、ハーアンはユニウスを魔女集会で見たと断言。被告はこれを全面的に否定。 6月30日、拷問を用いることなく自白を勧告。ユニウス自白せず。そこで拷問。最初に「指締め」、自白せず。次に「脚締め」、自白せず。次いで「吊り上げ」。 7月5日、拷問に掛けることなく熱心に自白を勧告。ユニウス、ついに自白を始める。4年前、自家の果樹園で山羊に姿を変えた悪魔に誘惑された事、悪魔の洗礼を受け、キリストを否定した事、魔女集会には黒犬の背に乗って空を飛んでいくのが常であった事などを自供した後に、共犯者数名を指名。8月6日、ユニウスは罪を自発的に認め、首をはねられて、死体は焚刑にされた。
これが裁判の記録です。「自由意志」で罪を認めたユニウスは、実はこっそりと娘に対して手紙を書いていました。以下にそれを紹介します。
可愛い娘、ヴェロニカへ。お父さんは何の罪もなしに投獄され、何の罪もなしに拷問され、何の罪もなしに死んでいかなければならない。この牢屋に入れられる者は、みんな魔女になるほかはないのだ。嘘の自白をするまでは、拷問を続けられるのだから。 拷問係が現れ、私の両手を結び合わせて両方の親指に「指締め」をかけた。血が爪の間からほとばしり出た。それから私を裸にして両手を後ろ手に縛り上げ、それにロープをむすびつけて私を天井まで吊り上げた。こうして八回も吊るし上げては床に落とすのだ。恐ろしい苦しみだった。 私を独房に連れ帰った拷問係りは私にいった。「旦那さん、どうか、嘘でもい いから何か自白なさいませ。考えてご覧なさい。あの人たちの拷問には、旦那はとても耐え切れませんぞ。あの人たちは何度でも拷問を繰り返しましょう」 私はとうとう自白した。みんな作り事なんだ。もうとても耐え切れなかったからだ。烈しい拷問を逃れたかったからだ。 これで万事すんだものとお父さんは思っていた。ところがまた彼らは拷問係りを呼び入れた。そして、「お前の出席した舞踏会の場所を言え」という。前に顧問官やその息子があげていたハウプトの森が思い浮かんだのでそれを言った。すると彼らは、「その舞踏会で誰に出会ったか」と訊ねるのだ。誰だか全然分からなかったと答えると、「この野郎、拷問係りにやらせるぞ、顧問官がそこにいただろう」という。「そうでした。いました」と答えると、「ほかに誰がいたのか?」と裁判官は訊ねる。「わかりません」と答えると、裁判官は役人に向かって、「この被告を連れ出し、まず市場からはじめて、すべての通りをひとつひとつ引き回せ」と命じた。わたしはその一つ一つの通りに住んでいる知人の名前を言わねばならぬのだ。P148~P155
著者は、このような「魔女裁判」の目的が、財産没収ではなかったかと推測しています。このことは、財産没収が禁じられてから魔女の摘発が格段に減少したことからも裏付けられています。
巨大な富を持ったユダヤ人が異端摘発の目標になったという事は、没収財産額と異端追及熱とが正比例するといわれる一例といえよう。P163
当時は拷問が正当な取調べ方法として認められていました。 魔女の疑いを掛けられた人は拷問を受けます。耐え切れずに「自白」した人は、「仲間」の名前を言うように求められ、拒否するとまた拷問を受けます。では、度重なる拷問に耐えたらどうなるか?この場合も、処刑が待っています。なぜなら、「こんな厳しい拷問に人間が耐えられるはずがない、だからこいつは魔女だ!」という理屈になるからです。 著者は、パスカル(フランスの哲学者)の言葉を引用しています。 「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行う事はない。」P192
最後の魔女裁判は、イングランドが1717年。スコットランド、1722年。フランス、1745年。ドイツ、1775年。スペイン、1781年。スイス、1782年。ポーランド、1793年。イタリア、1791年。アメリカでは、17世紀末に突然勃発したセーレムの魔女事件が最後であった。P201
魔女裁判は、「いつとはなしに」衰退し、消滅したと著者は語っています。 「教会は、「世界国家」の世俗的統轄のための異端審問や魔女裁判を必要としなくなった」と結論づけた著者は、「しかし、「新しい魔女」はこれからも創作され、新しい『魔女の槌』の神学が書かれるかもしれない」p203 と書いてこの本を閉じます。 誰が何のために「魔女」を必要とするのか?騙されないためにどうすればいいのか?
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