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1836年10月2日、チャールズ・ダーウィンがビーグル号による5年間の世界一周航海から帰国する。 1831年12月27日、イギリスを出帆した海軍の練習船ビーグル号に乗り組んだダーウィンは23歳だった。彼を牧師にしたいという父の反対を押し切って。彼の肩書きは「博物学者」なのだが、「博物学者」というのはどんな人なのか?この本を読んでいくとわかってくる。 とにかく観察と記述の正確さ、適確さには驚くばかり。何を言いたいのか、伝えたいのか、実にすんなりと伝わってくる。 下巻・第十七章「ガラパゴス諸島」を見てみよう。
私は数匹のトカゲの胃を切開して、その胃が細かに砕かれた海藻で大きく脹れているのを発見した。この藻はあざやかな緑や、赤みのある鈍い色の薄い葉のような体を広げて成長しているものである。私は干満潮線の中間にある岩には、この海藻を見た事を少しも憶えていない。私はそれが海岸から少し離れた海底に生えていると信ずる理由を持っている。そうとすれば、この動物がおりおり海に出かける目的が説明される。(p28)
副知事のフローレンス氏が、亀は各々の島によってそれぞれ異なっており、彼の面前に持ってくれば、どの島のものか確かに判別すると断言した事で、私ははじめてこの事実に注意した。住民たちは、その他の特徴にもそれぞれ差異があると言っている。(P39)
ダーウィンは、ヒワの類の異なるくちばしの形にも興味を示し、詳細なイラストも残している。彼が『種の起源』を刊行したのは1859年であるが、解説には大略以下のような事が書いてある。
この航海記を読んで感動した二人のイギリス人青年がいた。アルフレッド・ウォーレスとウォルター・ベイツ、二人はともにアマゾンに向かい進化学説の根拠となる資料を得ようとする。ベイツの『アマゾン河上の博物学者』はその産物である。一方ウォーレスはイギリスへの帰途、難破して収集品(昆虫類だけで1万4000種)ことごとく失うという不運に見舞われる。しかし彼はその後、マレー半島におもむき、滞留8年、1858年に『変種が原種から無限に離れていく傾向について』という論文をダーウィンに送り、発表を依頼している。ダーウィンは多年の計画であった進化論についての大規模な著作の形式を変更、その内容を簡単な形に要約して、ウォーレスの論文と並べて発表した。これが『種の起源』である。
ダーウィンは「先取権」を得たのだが、ここいら辺のところは中々微妙なところである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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