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732年10月10日、トゥール・ポワティエ間の戦い。 受験の際は「波に(732)戦うカール・マルテル」と覚えた。 北アフリカを席巻し、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へと侵攻したウマイヤ朝のイスラム軍は、イベリア半島を、ほんの一部(半島の北辺)を残して征服する。 次の目標はピレネー越えである。イベリア知事に任じられたアブドゥール・ラフマーン・アル・ガーフィキーは、山脈を越えてボルドーを略奪、破壊する。その後、ガーフィキーはトゥールのサン・マルタン教会に莫大な財宝があることを知り、軍をトゥールに向けた。 この報せを受けたフランク王国の宮宰(フランク王国において王の代理として財政、戦争、政治を担当する最高職)カール・マルテルは、パリからトゥールに急行した。 トゥールに到着した時点でイスラム軍はまだ到着していなかったのでカールは、南のポワティエに向かう。そしてポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇する。にらみ合いが続いた末、イスラム軍は騎兵が突撃、フランク軍は重装歩兵を中心として密集隊形を組んで盾の壁で防戦した。 この戦いでアル・ガーフィキは戦死、イスラム軍は撤退する。 カール・マルテルはこの戦いで騎兵の威力を認識、それまで知られていなかった鐙(あぶみ 革で鞍から左右1対を吊り下げ、騎乗時に足を乗せるための馬具)を採用、騎兵隊を創設しようとして、騎兵に農民付の土地をあたえるために全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行した。 このようにして、土地を貸与することによって臣下の服従を得るという双務的関係が成立する。これが封建制度である。 カール・マルテルの子のピピン3世は751年にメロヴィング朝を廃してカロリング朝を始める。ピピン3世の子がカール大帝(シャルルマーニュ)。 彼は778年にイベリア半島のカタルーニャに遠征している。遠征の帰途、しんがりを勤めていた一部隊がイスラム軍に包囲されて殲滅された。この事件をもとにして作られたのが『ローランの歌』である。 高校生の時に岩波文庫で読んだ。こういった武勲詩には独特の言い回しがあり、それに惹かれたことを憶えている。 のちに『エル・シードの歌』(岩波文庫)を手にしたが、文体の違いからか、読み進めることが出来なかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.10.10 20:59:15
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