読者からの投稿の紹介だったが、
以下、抜粋で、 (改行はこちらで実施、)
ただ、最近時々思い巡らしていることは、
聖書中心主義、
即ち、キリスト中心主義が、聖書偏重主義へ、
即ち、人間中心主義(聖書を人間の手中に収めようとする主義)
になってしまっているのではないかということです。
使徒行伝に記されている時代は未だ新約聖書は成立していない。
主の復活の証人となった人々が、確信をもって大胆に復活を、
そして十字架の福音を宣べ伝え、
聖霊の働くところ次々と人々は信じていったという事実です。
新約聖書が与えられたこと、
そこに記された記事を文字として読めることは
大なる恩恵でありますが、全世界に目を転ずるとき、
現在でも文字を読めない人々がまだ大勢いること
(識字率が低い地域が多いこと)、
文字を読める人がいても
読むべき聖書(翻訳)がないことなどを思い巡らすと、
必要なのは、
救いに与った者たちが主の十字架と復活の証人として、
文字以外の「ことば」をもって直接(あるいはあらゆるメディアを用いて)福音を宣べ伝える必要がありそうです。
印刷された聖書をもち、それを読むことのできる教育を受けた私たちは幸いである一方で、それができない世界の多くの人々のことを忘れがちです。
ミッション・スクールの本源は文字となった聖書を読めることができるような教育であるのかもしれません。
パウロやペテロをはじめ初代教会には、
現在あるような「書物としての聖書」はありませんでした。
みな生命と全生涯と生活を賭して、
十字架と復活と再臨を「宣べ伝え」て廻りました。
新約聖書を通してそのような生き様と緊張感(特に苦難や迫害の中で主を待望する緊張感)を読み取りたいものです。
「神のように」(創3:4)ならんとする人間の罪は、神のことばである「聖(なる)書」をも手玉に取らんとする誘惑に常に曝されていることを肝に命ずるべきでしょう。
上記の読者は、
聖書を中心に置くキリスト教に一石を投じている、
+使徒時代、聖書はなかったが、
爆発的に広がったではないか、
+今の時代、聖書を読めない人が多々いるではないか、
(これは先日、キリスト教は聖書一巻でよいーーにも記した、)
核心を突いた指摘だが、
では、教会は、キリスト中心主義になるか?
個人的には、すぐにはならない(と思う、)
G.Edwardはバプティスト派の宣教暦30年の教職者だが、
聖書を中心にした教会主義に疑問を呈し、派を脱退、
「使徒時代の群れに戻れ、」と提唱している、
その彼いわく、
「考えても見てくれ、アメリカだけでもミッショナリー(に与えられる献金)で生活しているのは500万人をくだらないのだよ、
使徒時代の群れに戻るためには、彼らに、(ミッショナリーを辞めてもらうために)新たな職をあてがわなければならないのだよ、」
ナルホドなー、
(利権から見るってすごい見方だけど、)
現実を見つめたことを述べていらっしゃる、
(ここんとこ小さい字で、)
聖書中心だからこそ、教職者制度が成立する、
キリスト中心になって、各個人がキリストと共に歩むようになると、
彼らの生活が成り行かない!?
また、信徒に、奇跡や、癒し、預言など、教職者が手におえないことを、
教会でやられたらたまったもんではない、
それ故、聖霊も、奇跡も、今の時代はないことに徹する、
使徒も終わった、聖霊も終わった、奇跡も終わった、
新約、旧約聖書こそが、信者の導き手である、
*余談だが、この話で、思わず、
こちら(原発を再稼働させる理由)が浮かんでしまった!?
それでも、
J.P.Jacksonは、
「今の時代の牧師、長老をヘッドとする教会の教職者制度は、
近々崩壊(topple)の憂き目を見るだろう、」
と崩壊の予想を覆さない、
これは察するに、
教職者制度が崩壊するのでなく、
キリスト中心主義が聖書中心主義を、
飲み込んでしまうからだと思う、
日本では、信仰者の数は1%未満といわれているが、
これはある意味、健全な数字である!?
残りの99%の人たちが、まもなく訪れるであろう、
キリスト中心の群れに備えているのだ、
(と期待している、)
『神は言われる。
終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。
地と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求めるものは皆、救われる。』 (使徒2:14-21)
そして、私のことばと私の宣教とは、
説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、
御霊と御力の現われでした。 (第一コリント2:4 )