とりなしの祈りと言うのは、
しようと思って、できるけど、
出来ない、
いや、続けられるか、
と言う意味でだけど、
ところが、これが、できる時がある、
即ち、続けられると言う意味で、
ドー言う時かと言えば、
それしか、落ち着きが来ない時、
いわば、強制的なものであり、
全然、自発的なものではない、
人の中心はたましいにあるんだ、等々、
たましいに光が当てられてきている最近、
他人様のたましいの状況が、
何かと気になってきている、
暗く、どす黒いイメージのたましいは、
なんとも言いがたく、重い感じがする、
とりなすとは、
この暗い、どす黒いたましいのために、
イエス様の救いの手が伸ばされるように祈ることである、
で、最近は、
これを祈っていないと、
心に落ち着き、平安が来ない!?
いやはや、なんとも、
かっこいい祈りの戦士などではない、
雛形を与えられ、
やってみろ、と言われて、
しぶしぶ導入訓練を受けさせられている、
世間知らずの新米のようだ、
これをして思った、
と言うか、悟らされた、
とりなしの祈りとは、
(とりなす相手のためよりはるかに、)
ほかならぬ、
自分の成長のためにあるのだなと、