昨日、考えるのをやめれば怖くないをUpした後、
パスカルの「人は考える葦である」が、
ずっと、頭の中を行き巡っていた、
パスカル、
(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日(39歳没))は、フランスの哲学者、自然哲学者(近代的物理学の先駆)、思想家、数学者、キリスト教神学者である。
「人間は考える葦である」などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名である。その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られる。
フムフム、
キリスト者ですか、
神の「恩寵」について弁護する論を展開しつつ、イエズス会の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。
ナルホド、
改革派ですな、
*ちなみに、17世紀のフランスで、
あのイエズス会を批判したら、
長生きはチト難しいかも、(トカナントカ、)
それと、葦って、これ、
風が吹けば、
折れソーで、折れないようなーー、
と言うところで、
(自分で、彼の著書を読む気は、
さらさらないので、)
他人様のメモなどを借用し、
ダラダラと、思索の世界へ突入、
座右の銘は「人間は考える葦である」
私は高校時代から数学が好きで、大学時代に数学を専攻していたこともあって、哲学者であり数学者であるパスカルの「人間は考える葦である」という言葉が非常に好きだった。(中略)
葦であるというのは、この断片の全文の中に登場する「宇宙」との関わりである。
人間は宇宙や自然、それに病気などの運命的要因によっていとも簡単に押し潰されてしまう存在であることを言っている。
パスカル自身、終生病弱であり40歳を迎えず亡くなったことから、日々病魔と戦う中で、病気に抵抗するのではなく、病気と共に細々と生きていくという意味も葦という喩えに込められているという人もいる。
強風で木々は折れたりするが、葦はしなることはあっても、風が止めばまた元通りになる。
弱いものを形容する方法は様々だが、パスカルが葦という題材を選んだのはそういう理由なのかもしれない。(中略)
私が非常に共感している事は「考える」という部分である。
全てのことにおいて、楽しい事を切り開いたり困難を打開したりすること、それら全てがまず「考える」という活動から始まる。
考えるということは理性的である人間の重要な活動であり、また私が最も重要視していることの一つでもある。それは数学や哲学のみならず、全ての人間の活動で重要なことであろう。
フムフム、
考えることは、
人間の活動の中で、最も重要なことーー、
もうひとつ、
人間は考える葦である
「人間は考える葦である」という有名な言葉は、パスカル『パンセ』の一節にあります。人間は自然のなかで最も弱い、一本(ひともと)の葦にしかすぎない。だが、それは考える葦である。(パスカル『パンセ』)
この原文のなかで、「人間は考える葦である」という部分はよく知られているのですが、『パンセ』を読んだことがある人はそんなにいないでしょうし、引用部だけでも、全部読んだことがある人はそんなにいないはずです。
僕も「人間は考える葦である」=「人間は物理的には弱い存在だけれども、考えることができるという、かけがえのない能力を持っている」という解釈でこの年齢まで生きてきたのですが、
こうしてあらためて、原文の訳を読んでみると、パスカルの「知ること」「考えること」への信頼と覚悟が、よりいっそう強く感じられます。
「知ることができる」という一点において、ひとりの人間は「全宇宙」よりも尊い存在なのだ。
パスカルは、この言葉を「自分もいつか、宇宙に押し潰されて死ぬことを知るかもしれない」という悲壮な気持ちで書いているのではないかと思います。
そういうふうに考えると、「人間は考える葦である」という言葉の「重さ」も、いままで僕が持っていたイメージとは違ってきたのです。
僕たちが、「知っている」と思っていることの多くは、「自分で知っていると思い込んでいるだけ」なのかもしれません。
フムフム、
知っていることの多くは、
知っていると、思い込んでいるだけーー、
で、個人的に、
まず、パスカルが、
30代で亡くなっていたことに驚き、
が、彼が、(病弱か何かは不明だが、)
より真剣に死と向かい合っていた、
と言う背景で、
この言葉、
「人は考える葦」を見なおすと、
確かに、又、
違った(重い)意味が浮かんでくる、
実は、昨日、パスカルの言葉、
「人は考える葦である」で、思ったのは、
人の人たる本質は、
考えることにある、となると、
この世の出来事、事象って、
すべて、イメージの世界ではないのかと、
単に、人がそのように思っているだけ、
の世界ではと、
しかし、”考え”そのものが、
実は、この世のすべてであったら、
一体、ドーなってしまうのだろう?
これまでの、
自分の行動(反応)の起こし方は、
まず、宇宙、星、太陽、自然、植物、
人、建物、車、ネット、新聞、スポーツなどなど、
これらが、既に、
物理的に、存在していて、
それが、自分の視覚、聴覚などを通し、
それら(のもたらす情報)を受け留め、感じ、
行動・反応を起こす、と言うもの、
マッ、一般的には、コーだな、
しかし、今回、思ったのは、
その逆で、
そのようなイメージが、
実は、自分の中にあるだけで、
その一つ一つのイメージに反応して、
自分が行動を起こしているだけに過ぎない、
みたいな、
これ、例えば、
サッカーやテニスの試合でも、然り、
相手と戦っているようで、
実は、一人(独演)の世界が繰り広げられている!?
なんか、
トンデモに聞こえソーだけど、
これが、
こちらの神事(一人相撲)などを見ると、
まんざらでもなかったりする、
*ナカナカ、意味深な神事、
このような、一人舞台・劇みたいなものが、
古来から存在していること自体、その証拠か、
(サッカーなどで)仲間と連携プレーしているのは、
連携してると思っているだけ、
相手が、ボールが、
そこにいる(ある)と言う”イメージ”(考え)だけで、
人は動くことができる、(一人相撲、)
さて、ここで、
このような考え方をすると、
人生を止(や)めるのは、
意外と簡単なことに気づく、
自殺なんか必要ない、
イメージする(考える)ことを、
止めればいいのである、
*昨日の103歳の著者が言っていた、
「考えるのをやめれば怖くない」世界が出現する、
一人相撲を、
止めればいのである、
これのいい例が、
”開き直り”にある、
”意識”的な活動の停止、
”考えること”の放棄、
がんばらない、
生きようとしない、
一切、防御しない体勢をとる、
痛くてもいい、死んでもいい、
落ちてもいい、失敗してもいいーー、
別名、”アホになる”、ともーー、
かっこよく言えば、”無になる”か、
自分には、今、
新たな境地(この世はイメージ・考えがすべて、)が、
芽生えてきていて、
同時に、又、
そのイメージの世界で、
一人相撲している自分の姿も浮かんできて、
気分は、(少しだけだけど、)
「人は考える葦である」のパスカルなのだ、