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ラッコの映画生活

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2006.12.23
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L'ENFER
Danis Tanovic

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この映画、一言にすると『美しき豪華なる駄作』とよべるような気がする。「美しい」し「豪華」だから、その部分で観れば見る価値はあるかも知れない。

予告編でもチラシでも明示されるように3人の姉妹を中心とする物語。もしかしたら3人が姉妹であることは見ている観客が段々に理解する方がよいのかも知れない。同じパリに住みながらほとんど会うことはない。長女ソフィ(エマニュエル・べアール)は結婚9年で子供が2人。夫ピエールの浮気に悩んでいる。次女セリーヌ(カリン・ヴィアール)は一人、郊外の老人ホームか何かにいる母マリー(キャロル・ブーケ)に定期的に会いに行っている。過去のトラウマで男性不信だが、セバスチャンという謎の男性が現れ心ときめかせている。三女アンヌ(マリー・ジラン)は父親のような年齢の、妻子ある大学教授のフレデリックと不倫関係。三人姉妹が子供だった頃のトラウマ、父アントワーヌをめぐる事件が、冒頭でほのめかされ、サスペンスタッチでそれが段々と明かになり、それに対する母の一言で映画が締めくくられる。ぐるぐる回る万華鏡が映像的にも全体を統一していて、三人姉妹や周辺の人物たちの、同じような不幸な人間関係が円環のように連鎖していている。

1996年に急逝したポーランドの監督クシシュトフ・キェシロフスキが共同脚本家クシシュトフ・ピェシェヴィッチと書き始めていた、ダンテの『神曲』に着想を得た新しい三部作『地獄』・『煉獄』・『天国』の遺稿・原案による。万華鏡を回転させながら覗く、美しくも無気味な世界が、そしてその筒の中から決して出られない、そんな世界がこの世という地獄だ、とでも解釈すればいいだろうか。

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まず気付くのは、手法も素材もキェシロフスキの引用・援用・真似の多用(引用写真に類似作品名を付記)。エンドロールには「K.K.に捧ぐ」とは確かにあるが、ファンサービスやオマージュの域を超えている。観葉植物の葉を全部むしったり、コップに落ちて溺れそうなハエがマドラーづたいに登ってきたり、覗きの視線で夜の室内を窓越しに写したり、長女の夫を写真家にして撮影風景を描くとか、新聞で知る事件とか、車の窓を通した視線や窓に映る影、鏡などの反映の多用、意味あり気な数字、等々とウンザリ。どうせなら列車のセリーヌにマジックボールを通して風景眺めさせるとか、牛乳ビン出すとか、それもすれば良かったのに、なんて皮肉も言いたくなる。もちろん他映画へのオマージュはキェシロフスキだってやっている。『デカローグ6』のスノーボール(オーソン・ウェルズ『市民ケーン』)とか、『青の愛』の事故車から転がるボール(フェリーニ『悪魔の首飾り』)とか。しかしほんのわずかであり、映画の根幹には関わっていない。オマージュやファンサービスなら1、2ヶ所で密やかにやればいい。仮にピェシェヴィッチの脚本にあったとしても、タノヴィッチは自分で脚色・監督しているのだから責任がある。彼はもっと「彼の映画」を作るべきだったと思う。

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(↑『デカローグ2』)

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(↑『デカローグ2』)

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(↑『デカローグ6』)

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(↑『デカローグ6』)

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(↑『デカローグ6』)

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(↑『デカローグ8』)

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(↑『トリコロール』)

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(↑『トリコロール/青の愛・白の愛』)

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(↑『トリコロール/赤の愛』)

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(↑『トリコロール/赤の愛』)

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(↑『トリコロール/赤の愛』?)


(以下ネタバレ)
この三部作の遺稿をもとに『天国』はトム・ティクヴァが『ヘヴン』にしたが、出版されている原案小説の訳者後記に、この『地獄』の要約が紹介されている。タノヴィッチの『美しき運命の傷痕』との違いは、1970年代半ばで、ゾフィア、ピョートルという名から想像するに舞台はポーランド、父の容疑は未青年者への性的イタズラではなく政治犯だということ。生徒だったセバスチャンの悪ふざけの嘘を真に受けた妻の告発となっている。また最後に真相を知って彼女は涙を流すとある。この2つの相違点の意味は大きい。最後に母(妻)が涙を流すのと、「後悔していない」とでは、映画全体の意味は激変する。また政治犯は思想上の体制に対する罪であって、未青年者性的虐待かつ妻への一種の不貞のように人格的・人間的罪ではない。それなのに告発し、出所した夫を受け入れない妻の態度の意味は大きく違ってくる。タノヴィッチの映画とこの要約から想像・解釈するに、キェシロフスキの『地獄』とは「愛の不在」だったのではないだろうか。

この映画でただ一人「愛」を体現しているのは父アントワーヌだ。セバスチャンの告白などから想像するに、父は事件当時自己弁護をしなかった。セバスチャンの人としての弱さをかばった愛だ。自己弁護をしていれば、判決がどうなったかは別として、まだ子供のセバスチャンに嘘か、恥ずかしい自分の告白を強要することになった。父のその優しさは鳥のヒナを巣に戻す映像で映画冒頭に紹介されている。そして愛ある人物は絶望の自殺に追いやられる。政治犯であればとくにそうだが、母が夫を告発、拒否したことは、人(しかも夫)に対する愛の欠如。つまり三人姉妹は愛の不在を事件で思い知って大人になった。

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残りの人物の行動には「愛」がない。長女ソフィにしても、浮気の夫を愛で許すかどうか以前に、求める愛で、与える愛を欠いている。だから夫婦関係も上手くいかなかった。この夫ピエールに愛人のジュリーが「あなたは自分だけが大切なのよ」と言うが、これが全人物の「愛」を象徴している。3人の中で望みがあるのは次女セリーヌ。それとセバスチャン。原案では2人は同じ誕生日ということになっている。キェシロフスキなら長女と三女を金髪、次女のみ黒か茶髪にしたのではないだろうか。愛からであるかどうかは疑問だとしても母親の世話をする。男性恐怖症にありながら愛を求め、受け入れようとする。相互的に愛をもたない三人姉妹の愛の回復も望む。しかし真実を告白したセバスチャンに愛で接することはできなかった。冷たく去っていくだけだ。セバスチャンも告白はしたものの、自分の過去の嘘の結果で傷付いているセリーヌには冷静なだけだ。彼は「どうしてお母さんはお父さんを告発したの」と問い、セリーヌは「わからない」と答える。真実は「母は父をもともと愛してなかったから」ではなかったろうか。こうして愛の可能性をもった2人も結局は「愛することの不在」地獄から出られない。

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三女アンヌはいちばん年少で父の愛に接する機会が少なく、そのために父を求めての教授との不倫だろう。でも、だから、子供っぽい一方的に求めるだけの愛。陽性の妊娠検査薬を送りつけられた彼は事故死するが、原案では雪山で遭難とあり、自殺ではないにしても生きる気力をなくしての死として描かれる。妻子と愛人に対する中途半端な愛の結果とも解釈でき、愛の可能性を持っていたのかも知れない。だがそういう彼は死ぬ。つまり夫も教授も、愛のある人物は生きられないという地獄かも知れない。(余談だが、アンヌが走るシーンが何度か長々と写されるが、これは『天国』を監督したテクヴァの『ラン・ローラ・ラン』へのオマージュか?。)

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ちなみに『トリコロール/赤の愛』の中で、老判事は電話盗聴している隣家のホモ不倫夫のことについて言う。「遅かれ早かれ彼は窓から飛び下りることになる。あるいは妻が事実を突き止めるのかも知れない。小さな娘の耳にも入るだろう。そうなれば地獄だ。」と。ホモの事実関係の有無はあるが、まさしくこの地獄はこの映画の20数年前の事件そのものではないだろうか。ピェシェヴィッチの脚本が政治犯としていたならば、これもタノヴィッチの安易な援用だ。

そして最後に母は後悔はないと言うか、涙を流すか。口頭試問のアンヌの口から語られるように、信仰のない現代には(古代ギリシャ的意味での)悲劇は存在せず、あるのはせいぜいドラマだ。だから母の態度を王女メディアと同類に見ることなどできない。信仰もなく、愛する愛もなく、そのことがこの世界の地獄なのだ。この映画は、そのことをしっかりと描いていない。表層的なドラマ、よくありそうなドラマの羅列でしかない。後悔はないという母にはこの世界は地獄ではない。涙を流さなければならない世界だかれこそ、この母にとっても地獄なのではないだろうか。


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Last updated  2006.12.25 23:04:17
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