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中学三年の時の担任の先生が篠原先生。
結核持ちの国語の先生。 先生は何故か僕を気に入ってくれていて、 何かと世話を焼いてくれていた。 当時の高校進学率は50%余りで、 僕も就職組だと思っていた。 しかし、どうした訳か、僕の成績は抜群で、 常に学校のトップスリーの一人にいた。 僕の進学が難しいと知った先生は、 血相を変えて僕のうちに乗り込んできて、 とても結核持ちとも思えないような、 それまで見た事もない剣幕で、 僕の進学を家族に訴えてくれた。 そこで、20歳上の兄が、僕の進学を請け負ってくれた。 当時の僕は、大学なんぞは夢にも思っていなかったので、 当時、新設されたばかりの都立工業高専の電気科への道を選んだ。 25倍(40人募集のところに1000人が受験した)の難関をも、 びり(それも当然で、全国模試の東京都で2番なんて奴も受けていたのだから。) で突破して、都電と国電を乗り継いで、駅から20分以上かかる道を、 通学時間2時間以上かけて、毎日通った。 冬なんぞは朝星夜星の生活だった。 入学の年の12月に、母が急逝した。 僕は生きる気力を失い、死を決意した。 しかし、何故か、その時、既に早くもこの世を去っておられた、 あの時の血相を変えた篠原先生の顔が思い出され、 “人はいつか必ず死ぬのに、何で苦しみながらも生き続けているんだろうか” と言う迷路のような問が僕を捕らえ、いつの間にか、死ぬ決意は消えていた。 以来、僕はこの問の答えを求め続けて、学校そっちのけで、 日比谷図書館に通っては本を読み漁り、 教会に通い、社青研に通っては議論をし、 日比谷公園や山下公園や山の手線や奥多摩などの近郊の山の中で思索にふけった。 北アルプスの山の中で、それまで隠し持って歩いていた母の遺髪を 底の見えない谷の深みに投げ捨てたのは、19才の時だった。 あの時、何故捨ててしまったのかは、未だに謎のままだ。 仲間に後れて、一人で霧に包まれた深い谷底を見ていたら、 自分が飛び込みたくなった衝動を抑える為だったのかもしれない。 篠原先生にも会いたいなぁー。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.04.18 19:32:20
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