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カテゴリ:仏教
なんで阿羅漢の涅槃を菩薩の教えをまだ説く時期でなかったころの低いもののように言ってから、心配すんな、阿羅漢も菩薩と同じとこまで行けるからと言うのか。
下に見てから、同じやと保証したるって、めちゃ上から目線やん。 たとえば、法華経方便品の「我、涅槃を説くと雖も是れ亦、真の滅に非ず」と鳩摩羅什は書いているが、これがわからん! だって、ニルバーナの音写が涅槃で、意訳が滅やろうが! 涅槃やけど、滅やないって、どういうことやねん。 サンスクリット語では両方、ニルバーナちゃうんか。 納得いかんから、調べた。 ほんなら、植木雅俊の「梵漢和対照現代語訳 法華経」の方便品の67をサンスクリットから直訳すると「シャーリプトラよ、私は、それらの人々(あほなやつらということ)のために『あなたたちは、苦を終わらせよ』と言って、方便の教えを説く。苦によって苛まれている衆生たちを見て、そこで私は安らぎ(涅槃)について説くのだ。(67)とある。 梵本67にもnirvanaとある。 これは鳩摩羅什漢訳では「是の故に、舎利弗よ、我為に方便を設けて、諸の尽苦の道を説き、之に示すに涅槃を以てす」にあたるだろう。 ほんで68梵本直訳は、 「また私はこのように告げる。『これらのあらゆるものごと(一切法)は、常に寂滅しているのであって、本来寂滅なのだ」 これは鳩摩羅什漢訳の「諸法は本よりこの来、常に寂滅の相なり」にあたるだろう。 しかし! その間に鳩摩羅什は「我、涅槃を説くと雖も是れ亦、真の滅に非ず」って書いてる。そんな文言は梵本には、一切ない! 涅槃は滅やねんから、そんなこと、サンスクリット語で表現できひんはずやし、おかしいなって思って、調べてみたら、案の定や。 梵本で読めば、ここでいうてるのは、阿羅漢に滅を教えたけどもよ、ほんまは一切の存在ははじめから滅やねんってことでしかない。 そんなん臨死体験した人や、瞑想で深みに入った人や、LSDやDMTで極まった人は、全員知ってるねんけど。 ややこしいのは、「我、涅槃を説くと雖も是れ亦、真の滅に非ず」って創作訳を挟むことやないか。 涅槃と滅は何がちゃうねんってなるやないか。 涅槃と滅は同じや。 涅槃への道を説いたけど、ほんまは時空などなくそもそも涅槃しかないねんって、そんなん法華経に言われんでも知ってるわ! たぶん、ラムダスも、テレンス・マッケナも知ってるわ! 前には低い教えで涅槃って言うたけど、それはまだほんまの滅ちゃうねんでと差別化する創作訳は何のためやねん! そんなに大乗のほうが上と言いたいわけか。 中でも声聞、縁覚も未来に真の滅に至ると保証した一乗思想の法華経が一番すごいと言いたいわけか。 差別化を大乗側でしてそれを法華経で同じ一乗やとありがたく思わせるためのための、その準備段階としての差別化やな。 阿羅漢が知ったのははじめから同じ滅のはずと思う。 法華経がいったん差別してから、未来に保証したるって、上から目線で言わんでも初めからそうやな。 そう思うで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.02.06 01:03:16
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