今日は地下鉄サリン事件から29年になる。朝、日比谷線で異臭が発生したというニュースが流れ、そのうち何人もの人が倒れているということになると、これはただごとではないと思った。その日は午前中の出勤を見合わせた人もいたという。この事件については事件関係者の裁判も終わり、死刑確定者の執行も終わったので、歴史の一部になりつつあるのかもしれない。ただ、事件が宗教団体によるものと判明してからは「マインドコントロール」論者がマスコミをジャックしたような現象が起こり、事件は社会に反感を持つ一人の悪魔的人物と彼にマインドコントロールされた人々によるものという印象がふりまかれたように思う。たしかに異例の数の死刑確定者がでたのだが、その一方でサリン実行犯の中には最初から無期懲役を求刑された者もいたし、一審で無期懲役判決がでたものもいた。地下鉄サリン事件のリムジン謀議の場にいながら全く刑事責任を問われなかった者や微罪ですんだ者もいる。そして一般信者の中には本を出版して評論家のような活動をしていた者もいた。「マインドコントロール」論は教祖以外のテロ実行犯や信者達にはやさしく作用したのではないか。
人格の解凍、再凍結などといったマインドコントロール論は理解不能だし、もしも、そんな人間を操る技法があるのなら、とっくに商業や軍事などの分野に応用されているだろう。実行犯自身の手記「オウムと私」や「悔悟」を読んでも、マインドコントロールされたことは否定しているが、犯罪に至る心理はそれでもわからない。特に「オウムと私」ではサリン散布のために地下鉄に乗ると父の形見のコートを着た自分の姿が窓に写っていたという。そのときに少しでも翻意を考えなかったのだろうか。それとも、サリン事件を実行する頃には実行犯達は本当にオウムが政権を取るとでも思ったのだろうか。
別の死刑となった実行犯は、文武両道の優等生で友人も多くボランティア活動も行っているような青年だった。それが出家後わずか二か月で弁護士一家殺害に関与し、幼児殺害に手をそめた。
人間というものは、集団になると個人ではとうてい考えられないような行動を行うという特性があるのかもしれない。国家や企業が行う犯罪的行為であっても、手をそめた人々は往々にしてよい友人であったり、立派な家庭人であったりする。集団…といえば、最近、起きた某大学生のサークルによる旅館損壊事件というのもわけがわからない。障子を破くなんてことは子供だって普通はしない。これも理解不能な行動である。