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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【保科民部正興】 保科正之公の養祖父・保科正直の弟、保科正勝の孫に保科民部正興という人物がいました。家中にあった「お家騒動」のために蟄居させられ、それでも問題があったので、貞享三年(1686)に現新潟県阿賀町鹿瀬水沢という村に謫居させられました。そして、元禄二年(1689)に数え年四十三歳で亡くなっています。この間の記録が『会津藩家世実記』に残っていますが、その部分を読んでいて、何かしっくり来ないので、2012年4月に何回も旧鹿瀬町一帯を巡ってきました。 右側の墓石は、保科正興の墓石の奥に一基だけひっそりと建てられている墓石です。「喜継智永信女 霊位」と彫られています。ただし、「霊」は異体字・速記文字が使われています。おそらく、保科正興の妻の墓石であろうと思われます。保科正興が亡くなった後、妻は実家のある京都へ移り住んだとされていますが、それが事実であれば、ここには埋葬されていないと思われます。 そして、この鹿瀬町には、家紋が角九曜紋の家や丸九曜紋の家が残っています。関心のある方は、是非、鹿瀬町を巡ってみてください。ただし、徳沢へ行く途中から阿賀野川沿いを下るのではなく、津川から阿賀野川沿いを遡ってください。徳沢の近くから阿賀野川沿いを下る道には、2011年の夏にあった洪水で非常に危険になっている個所があります。既にあそこが復旧しているとは思えません。小生は、帰りに一度だけ通ったことがありましたが、それ以後は行きも帰りも、津川経由にしていました。 保科正直と保科正勝の父が保科正俊です。この保科正俊の時代に、保科家は保科郷から伊那谷へ移動しているようですが、その理由にかんしてははまったく記録がないようです。ただ、一つだけ言えることは、保科郷にもキリシタンの痕跡が残っていることです。2003年に保科郷を訪ね、2009年にも保科郷を少し丁寧に巡ってきました。宝篋印塔が墓地に多数残っているお寺がありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.06.19 17:10:12
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