|
カテゴリ:スピリチュアル & 不食
終戦直後の米軍司令官との友情 駅長をしていた母方の祖父は、戦争中、物資輸送の要、大阪港の荷を受け入れる浪速駅長をしていたので、直接戦地へ行くことはなかったが、自叙伝を書き残した。 12人の孫たちの中で、末から2番目で、もっとも身近にいた私は、 祖父との会話も一番多かったように思う。 祖父はすでに隠居していて、長年集めた美術品や骨董品のことを聞くと喜んでくれたし、私もその説明を聞くのが好きだった。 時折、矢立をもって散歩に行く祖父の姿は、こども心にとても風流だった。 矢立(やたて): 外出時に思い浮かんだ俳句などを書くための小筆が小筒の中に立てて入れてあり、腰にかけて歩ける。底には、墨が入っている。昔の携帯用筆箱だ。 愛の1クリックお願いネ♪ヽ(^。^)丿人気ブログランキング 昭和17年: 浪速駅構内から、大阪港の突堤と住友岸壁中央桟橋までの6キロの間の作業場に、1日約4千人の労働者がおり、それを十名ほどのドス一丁の親分たちが指揮していた。 この親分たちの協力と、住友倉庫の総務部長、他の4つの倉庫業者たちの協力をとりつけ、 祖父は3年間、毎日休まず、日に3回、サイドカーで現場を巡視していた。 浪速駅では、1日あたり貨車600輌から750輌の積み込み実績があったという。 昭和19年: 大阪の住友倉庫にやってきた、東条総理大臣に、戦中の大阪港の港湾行政に対し、進言。 周囲はヒヤヒヤしていたが、東条総理は笑みを浮かべて、何も答えなかったらしい。 昭和20年: 終戦直後。当時山陰地帯の米軍総括司令官は、バッセル中佐という。 祖父が戦後、米子駅長に着任以来、接触の多かった司令官で、どこか気分に通ずるものがあり、好き理解者だったという。 ある日、 「このたびの戦争で、何が一番日本人として残念か、遠慮なく答えてくれ。」といわれ、 祖父は、 「日本がハワイの攻撃で終わった一事である。せめて、一発の砲弾でも米国本土に打ち込んで、 敗戦に至ったならまだしも、これが一番残念である。」と答えた。 司令官は、祖父の手を握り、 「よく言ってくれた。」と喜んだそうだ。 今の私たちには、その心情を知る由もないが、祖父の男としての気骨が、司令官に通じたのだと思う。 この中佐がアメリカへ引き揚げるとき、友情のしるしに記念品を交換したそうだ。 祖父は短刀一口を贈り、中佐からは尊父の形見のライターを贈られたそうだ。 子供の頃、この話を聞いて、ついこの間まで敵味方だった国の司令官との友情に、すごく感激したのを覚えている。 明治の気骨の男だった祖父は、身体も筋肉質で頑丈で、いつも「腰に乗ってくれ」というので、 小学生の私は、バランスをとって落っこちないようにしながら、 うつぶせに寝た祖父の腰の上で足踏みしていたのが昨日のことのように思い出される。 もう一人の祖父の 戦争の体験談 も読んでね。 こっちもみてみる? 精神世界ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[スピリチュアル & 不食] カテゴリの最新記事
|