「裸の起源に見る進化論の誤り、その2」 2013年12月4日
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。2013年7月15日放映「世を愛された神」
「裸の起源に見る進化論の誤り、その2」
甲斐慎一郎
創世記1章27節
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして
彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(27節)。
「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を
吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(2章7節)。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、
わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ43
章7節)。
二、裸の起源に見る進化論の誤り
ダーウィンにとって一番大きな難問は、動物に時々見受けられる
不適者としかいいようのない者の存在である獣たちに見られる「無
毛性」こそ、その最大の不適者である。しかも、その特徴こそは人
間の特徴でもある。これは避けて通れない。ダーウィンが『人類の
起原』の膨大な部分に、ありとあらゆる動物の「第二次性徴」をと
りあげたのには、そういうわけがある。だから、この本を人間の裸
化をダーウィンがどのように解釈したか、という一点に集中して読
むと、ダーウィンの七転八倒がよく見える。最適者概念は、獣たち
の無毛性に出会うと崩壊する。
ダーウィンにとっては、生物の進化の機構は「自然淘汰」だけで
はなさそうだという予感は最初からあった。だから「獲得形質の遺
伝」も承認しているし、「性淘汰」もあると言う。しかし「最適者
生存」は譲れない。このために無毛の起原を語る時、無毛も「最適
者」だと言わなくてはならない。だが、これは難しい。毛皮がある
から獣なので、その毛皮を失うのでは、最適者概念が崩壊してしま
う。ダーウィンが無毛という『けもの』たちにとって例外的な意味
をまったく掘り下げようとしないのは、このためである。
水中生活者が無毛であることを、先に見たようにダーウィンはぬ
るり、するりとすりぬけているし、『無毛の熱帯起源仮説』も、あ
っちでは、いいと言い、こっちでは違うと言って、つるりとすりぬ
ける。さらに、熱帯地方では、毛のないほうが寄生虫を避けるため
にはいいという「寄生虫仮説」を「熱帯に棲む多くの四足獣が、ダ
ニや寄生虫から逃れるなにか特別の方法を獲得していないことから」
と否定する。ここにも「最適者生存」観念の呪縛がある。ダーウィ
ンにとっては、裸の皮膚は生存に適しているのか、いないのか、決
定できない特質なのだ。そのような例に直面したために、それぞれ
の具体的な例に正面きってぶつかるということをやめて、すりぬけ
るのである。つまり、裸の皮膚のような形質は生存に適していると
は、いい難いものだから、「最適者生存」の説明が難しいのである。
人間の先祖は、生まれたときから毛深く、終生その毛をもってい
た動物であったと考えてよいだろう。暑い季節でも、暑い地方でも、
毛を失うことは人間にとって不便であるし、またおそらくは有害に
なるだろう。なぜならば、毛がなければ、人間は太陽の炎熱に直射
され、また特に雨降りのときなどには、急に寒さに襲われることに
なるからである。
ワラス氏がいっているように、どの地域の原住民でも、ちょっと
したものを好んで裸の背中や肩にかける。皮膚に毛がないことが、
人間にとって少しでも直接のプラスになるとは誰も思わない。した
がって、人間の体から毛がなくなったのは、自然淘汰が働いたから
だということはあり得ない。
これは、つまりダーウィンの敗北宣言なのだ。人間の裸について、
ダーウィンは自然淘汰では説明できなかった。
(島泰三『裸の起源』木楽舎、2004年、57~69頁)。
一家に1枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)
次回は12月11日(水)「目に見える神と目に見えない神」です。
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