あらためて サイゴンの寂しいアメリカ人
私は、ベトナム戦争最中のサイゴン(現ホーチミン)に駐在していたその想い出は、過去ログの『ベトナム ベトナム戦争の想い出】というジャンルに収納してあるが、まだ書いていない思い出もあるそれらを、つぎつぎと、書いてみたい ―――― ◇ ――――私の宿舎は、サイゴンの中心街から車で二・三十分の郊外にあった私の宿舎は、コロニー風の白亜のヴィラで、以前は、米国空軍のパイロットの宿舎だったという道理で、私があるとき、クローゼットの引き出しを空けたら、機関銃らしきものの銃弾がバラバラとこぼれ落ちたその二軒隣に、ある米国人が住んでいたある時、偶然に顔を合わせて、話をして、その内に、お互いに行き来する仲になった彼は、米国人だったが軍人ではなく、いわゆる軍属だったらしい欧米人としては、小柄な男である初めは、彼が私の宿舎に来て、宿舎の食事を一緒に食べたりしていたが、その内に、私が、彼の家に遊びに行く様にもなったそこで知ったのだが、彼の妻はベトナム人だったのだ小さな子供(男の子だったと思う)もいたただ、彼は、妻にじゃけんな態度で接していたちょっと、民族的偏見もある様な気配だった私は、彼が、妻がベトナム人であることに、恥といらだちを感じている様な気がした米国人がベトナム人と結婚したのだから、初めは恋愛感情もあったのだろうが、今は、彼の、何とはない焦燥感のようなものに取って代わっている様だった民族偏見と言えば、私も、日本人なのだが、彼は、私には、そういう民族的な優位性をほとんど感じていない様で、私が彼より背が高いこともあったかも知れないが、少なくとも、そういうものを見せたことがなかったむしろ、彼は、私と親しくなりたがっていた日本文化に興味があると言い、日本について聞きたがったまた、われわれが宿舎で手慰みに興じていた花札に興味を示し、習いたいと言い出した花札に「いのしかちょう」という手役がある猪・鹿・蝶が揃えば、高い点数になるそれを、彼に教えていた時、私は、猪のことを「wild pig」と説明したのだが、彼が「いやそれは bore と言うんだよ」と教えてくれた札の絵の猪は毛深く描かれていて、明らかに豚ではないある夜、彼の家からサイゴンの繁華街に飲みに行こうと言う事になった家を出る前に、彼は、私にあるものを見せたそれは、小型のピストルだった小型で、色も黒い鋼鉄製ではなく、真鍮の様な色合いの、あまり凶暴ではない(笑)拳銃だった彼は「もし、何かがあったら、これを使うんだ」と言いながら、懐に収めたわれわれは、表に出て、タクシーを捕まえた当時のサイゴンのタクシーは、みな、ルノーの超小型車と決まっていた黄色とブルーの二色に塗り分けられている クリックする ↓当時のサイゴンのルノー・タクシー ルノー4CVこのルノー4CVは、戦後の日本でも、フォルクスワーゲンのビートルと並んで、結構、街を走っていたこうして我々は、当時のサイゴンの銀座通り、カティナ通りに向かった クリック ↓当時のカティナ通り この写真だと、ちょっと寂しい通りに見えるが(笑)、いざ、夜ともなると、そこには、ナイトクラブ・キャバレー・米兵バーが軒を連ねていて、ミニスカートの魅力的なサイゴン娘が我々(だけ)を(笑)待ったいる、はずであったそうして、カティナ通りでの歓楽を楽しみに車中の人となったわれわれだったが(このカティナ通りはフランス人がつけた名前だが、今は、共産党政府によって「ドンコイ通り」という無粋な名前になっている)途中で、彼が運転手とケンカをし始めたのである原因は些細なことだったと思うが、彼の方がメチャを言った記憶があるタクシーがカティナ通りに滑り込んだとたん、タクシーの運転手がタクシーを急停車させた激怒している様子の彼は、車のクランク棒を握って、同じく外に出た我々に殴りかかったクランク棒というものを、もう知らない人が大部分だと思うが、エンストした場合に、エンジンを再起動させる為の鉄の棒であるそんなもので殴られてはひとたまりもない私は、牛若丸よろしく、ヒラリヒラリとクランクを避け(そんなはずはない)ただ、棒をよけるだけだったところが、その時、彼が、懐から例のピストルを取り出したのだ彼は、何かわめくと、引き金を引いた「パーン パーン」という発射音がカティナ通りに響いたさすがに凶暴な(笑)運転手もひるんだ「逃げよう!」私は、彼に声をかけて、カティナ通りを交差する横丁に逃げ込んだそれからも懸命に走った ―――― ◇ ――――過去ログに書いたことだが私は、以前に、この場所で、プラスティック爆弾の爆発に巻き込まれる寸前という経験をしているこの近所にあったベトナムの人気歌手が出るので人気の小さなナイトクラブに入ろうとしたら、そのナイトクラブが、ベトコン(南ベトナム解放戦線)が仕掛けた(であろう)プラスティック爆弾で吹き飛んだのであるそのナイトクラブに入ろうとした・・・と書いたが、その寸前に、ミニスカートの魅力的な女の子がカティナ通りを横断して、ある米兵バーに入ったので、急遽予定を変更して、そのバーに入ったのである注文した缶ビールを握って飲もうとした瞬間に突き上げる様なショックと爆音が響き、外の飛び出してみたら、そのナイトクラブが、中身を抜いたマッチ箱の様になって硝煙を吹き出しているのであるカティナ通りの道路には、吹き飛ばされてきた死体?やバラバラの手足が散乱みなが大騒ぎをする中にけたたましいサイレンの音と共に、米軍のジープが突っ込んできて、ポイポイと死体らしきものを投げ入れて、またサイレンを鳴り渡らせて近くのフランス病院、パスツール病院へ急行して行ったそのジープは、以前、「ラット・パトロール」という砂漠で活躍する米軍のジープ部隊のテレビ番組でおなじみの(私だけにおなじみの)(笑)後部座席に回転銃座と機関銃を据え付けた戦場仕様のものだまだ集まった群衆がどよめいていると、数人の警官が飛び込んできて、いきなり、空に向けてピストルを撃ち始めた後で知ったのだが、ベトコンは、時限爆弾(プラスティック爆弾)を仕掛けて爆発させるが、それ打絵ではない集まった群衆に二度目の爆発を仕掛けるのだというだから、それを防ぐ為に、親切な?警官が拳銃を乱射したのだ私は、その時、あわてて、命からがら宿舎に帰ったのだが・・・ ―――― ◇ ――――今回も同じような状況であるいや、以前より悪い戦時のサイゴンの繁華街で、拳銃を発射しているのである警官・MP・兵士などの、どれにつかまっても、監獄行きであるいや、問答無用で射殺される可能性もあるとにかく、二人で、必死に逃げたいつ、どのようにして帰宅したかは、よく覚えていない例によって、私は、トラブルメーカーであるしかし、私が、狡猾にも(笑)それをみな覆い隠しているので、みなは、そういうトラブル自体を知らない翌朝の事務所で英字新聞で、ナイトクラブ爆破の新聞記事を読みながら、その新聞紙で顔を隠しながら、事務所のみなの顔を見てみるのだが、当然のことだが、私がその事件現場にいたなど、知る気配もないその米国人とは、それからもしばらく付き合っていたのだが、だんだんと、私は、彼と距離を置く様になった特に意識したものでもなかったのだが、彼の私への距離が近すぎる様に思ったのかも知れない現地の女性と結婚して、米国人とのつきあいもそれほど無さそうな彼の、私とのつきあいの中に自分の場所を求める様な接近に、少々、鬱陶しい感じを抱いていたのかも知れないまた、戦時の中、建設現場を預かっている私は、事実、資材調達や現場の妊婦の給料支払いや、帳簿づけやバー通いや(笑)・・・、いろいろ忙しくて、ついつい、彼を忘れていった私は、男性に、外国人を含めて、異常に好かれることがたびたびあって(笑)、自分でもふしぎだったのだが、彼もそんな人間の一人だったのかも知れないある夜、私がカティナ通りの米軍バーに入ったら、カウンターで彼が、ぽつんと一人でビールを飲んでいたベトナムの米兵バーとは、主に米兵相手のバーで、超ミニスカートのベトナムの美女がいるのである米兵と言っても、沖縄の私服の米兵とは違う今戦場で、殺戮の現場から帰還した兵士が酒をあおり、女を求める場所である戦場の泥にまみれた軍歌でドスドスと歩き回る背の高い大男ばかりの米兵の中で、小柄な彼は、さらに小柄に、猫背に見えた「どうして、この頃は宿舎に来ないのか?」私がそう聞いたら「君は、私の訪問を望んでいないだろう」彼は、そう答えて、缶ビールをすすった「いや、そんなことはないよ」私は、そう言おうとしたが、果たして、本当にそう言ったかどうか?記憶にはない少なくとも、それが私の本心だとも言え無かった彼とは、それっきりであるなぜか、二度と、会うことはなかった彼が引っ越したのかも知れなかったが私が帰国してしばらくして、北ベトナム軍がベトコンと共にサイゴンに入場して、サイゴン陥落南北統一が成された私の知っていた南ベトナム政府の要人達は、みな、強制収容所に入れられ思想教育を受けたいや、それは、まだ運のいい方だろう処刑された方が多かったのかも知れない北側の報復は過酷だったと言われる私の恋人だった女性は、本当は北側のスパイだったとかで、北側の幹部として現れたというしかし、本当のバーガール達は(笑)強制収容所であるそう言えば、サイゴンを再訪した時、私があれほど魅惑された、フランス人とベトナム人との間の混血美女を全く見かけなかった処刑されたのだろうか?モッタイナイ(笑)サイゴン陥落の直前、南ベトナム政府の役人をはじめ、一般人も争って米軍のヘリに群がって逃げようとした私は、サイゴンにいる時に、南側の高級軍人と話したことがあったが、戦況の行方について彼は楽観的だった少なくとも表面的にはしかし、米軍さえ予期しなかった急速な陥落で、米軍自身の撤退がせいぜいだっただろうあの彼は、どうしたのだろう?安全に、米国に帰国できただろうか?まともに、北側につかまったら、間違いなく死刑だろう映画「ディア・ハンター」などで見る、北側の捕虜に対する虐待は恐ろしいあくまで、映画上での話だが彼の家族はどうなったのだろうか?その他にも、いろいろ、どうなったのだろうか?と考える人々がいる私の事務所の現地クラークは、半数が北のスパイだったそうである驚きであるまあ、私も、彼女がスパイだった事も知らなかったのだから、驚いている場合でないのだが(笑)彼女は、今、何歳だろう?今も美人なんだろうか?いつか、彼女と私とのツーショットの、美男美女の写真を、この日記にアップするのが私の夢であるホントかい?