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カテゴリ:大島を描いた画家や文人
東京七島新聞2021年10月18日号
以下は事前に新聞社の送ったワードの原稿です 牙彫の技を生かした長島定一 大島の風土が感性を育てたとも言える洋画家中出那智子を語る時、那智子の父である長島定一の存在を忘れてはならない。 長島定一は文展の吉田芳明門下として牙彫(象牙を材料にした根付のような彫刻)、木彫を学び、三十才まで太平洋画研究所や日本美術院研究所で研鑚、昭和二年の日本美術院試作展に出品した彫塑「南國」が入選している。昭和三年、三十一才の時に持病再発して大島に渡り静養、島を気に入ったようで大島に住みつき「南島館」という旅館を営むようになった。当然ながら彫刻は断念し、しばらくは負担の少ない油絵を描いたりしたらしい。旅館には多くの画家や画学生が泊っている。昭和七年に来島した画家上岡美平もこの「南島館」に宿泊している。偶然ではあるが上岡美平のご遺族から見せていただいた当時のアルバムには南島館の玄関で撮影した写真が貼ってあった。宿主の長島定一は写っていないが、母親に抱っこされたまだ一才くらいの那智子が画学生等と写っていた。長島定一は会得していた牙彫の技を使って大島特産の椿の実(特に形の良い種子を選んだ)を研磨して椿の花や三原山、十二支などを彫り、彩色した土産品を考案、大島の民芸品として売り出した。今もその技法は生き続けているが、芸術家を目指していたことは誰にも話さなかったようだ。同好の仲間たちと俳句を詠み、句集「たこ壺」を発行したり、運動会のアーチ造りやクリスマスの飾り錦絵などを描いて芸術家の才能を存分に発揮していたそうだ。木彫の「南國」は大島に来る前に作られた作品で、残念ながら題材は「大島」ではないが、「椿の実十二支ほか彫刻」と共にふるさととなった伊豆大島でいつでも見ることが出来る。
明治後期から大島を訪れた画家や彫刻家たちが残した足跡を追いながらようやく現代までたどり着いた。 多くの芸術家が各々の動機を持って大島を訪れた訳だが、画学生のまま終えた人、日本中の誰もが知っている著名な人など洋画・日本画・版画・彫刻・刺繍・貼り絵などジャンルを問わず様々である。大島を描き色々な体験を通してそれなりの目的を達したのであろう。 自然を相手に大島に暮らしながら何かしら絵や彫刻などに興味を持っていた島人たちは、島外からやってきた芸術家たちとの交流を通して多くの夢を見て、そして日々の暮しに役立てる工夫をしてきたに違いない。 「大島を描いた画家たちの作品」の歴史はまだ百年足らずである。(おわり)
※第四巻「絵画編」に掲載した一文は、今回の東京七島新聞連載にあたり加筆、また参考文献の表記など一部省いたので、詳しくは本編を参考にしていただきたい。 なお四巻とも大島町役場政策推進課(℡04992・2・1444)にて頒布中です。
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最終更新日
2021年10月19日 15時56分36秒
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