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カテゴリ:季節
1月31日(木) 今朝は晴れていますが次第に雲が多くなり、 夕方から小雨、夜半には小雪に変わるようです。 それでも、降雨量、降雪量は少ない予報ですから、 お湿りはあまり期待できないかもしれませんな。 日記は江の島岩屋の中。 まずは第一岩屋の左の道を進みます。 ところどころ天井が低くなり、探検気分が盛り上がります。 木製の柵があり一段と下に下がるようです。 奥には何かが祀られているようですが、 この先は通行止めで、行くことはできませんでした。 言い伝えでは富士山の麓の氷穴まで繋がっているとか。 氷穴は富士山の噴火活動でできた洞窟。 こちらは相模湾の波の力で削られてできた洞窟。 向こうとこっちが繋がっているとは、 俄かに信じることはできませんが少しばかりロマンを感じます。 左側に見える石は、日蓮上人の寝姿石。 確かに人が仰向けに寝転がっているように見えます。 来た道を分かれ道まで戻り、今度は右側の洞窟に進みます。 突き当りにはこのような祠がありました。 伝承ではここが江島神社発祥の地なのだそうです。 時は552年(欽明天皇13年)、初めて神様が祀られたのだとか。 飛鳥時代より以前の古墳時代のお話ですから、大昔から神が宿る地に思えたのでしょう。 右側の狛犬は子犬に乳を飲ませています。 子犬を手で持っていますね。 何とも人間味のある不思議な狛犬です。 ここもこれ以上は進めません。 ここで引き返すことになります。 通路の右側には様々な石造物が見えます。 江島神社に信仰の篤かった人々が運び込んだとされています。 仏像が多いのですが、巳の石像も幾つかあったように思います。 弁財天様は元々インドのヒンドゥ教の女神、サラスバティでしたね。 サラスバティは水の神様であり、五穀豊穣の神、歌舞音曲の神でもあります。 弁財天様にも五穀豊穣の神の性格は引き継がれていて、 眷属(神使)は蛇(巳)なのだそうです。 入ってきた所を通り越し、ここから一旦第一岩屋を出ます。 この橋を通って第二岩屋に向かいます。 亀石と呼ばれる石があるのですが、これかどうかは不明です。 何となく亀に似ているように見えますが、首が長すぎる様に思えます。 程なく第二岩屋の入り口に到着します。 第二岩屋の中は真っ暗ですが、手燭のサービスはありません。 その代わり、イルミネーションが道案内をしてくれます。 突き当たりには、如何にも・・・な竜神の像があります。 またイルミネーションを頼りに出口(入口)まで戻りました。 1月5日の潮回りは大潮で、午後4時ごろがちょうど満潮。 岩棚は全て潮が被っていて、降りることは不可能でした。 稚児ヶ淵の上の階段からの富士山の景色。 かなり陽が傾いています。 ここから親爺は脚を早めます。 江の島シーキャンドル辺りから、陽の入りを撮ろうと考えたのです。 奥様にはゆっくりと来てもらうことにし、ほとんど駆け足状態で進みます。 冷静に考えてみれば、この辺りからでも十分きれいに撮れたはずです。 とにかく急げ急げで息が切れました。 汗だくでもありました。 途中、奥津宮の脇にある龍宮(わだつみのみや)で休憩がてら撮影です。 「わだつみ」とは、日本神話の海の神様のことでしょう。 「わた」は海の古語です。 このお社は平成6年に新たに建てられました。 ところで、江の島には龍神様が多いですね。 其の謂われは、1047年(永正2年)に、 比叡山延暦寺の僧が著した「江嶋縁起」という書に記されているそうです。 昔、対岸の津村というところに、 大きな湖があって五つの頭を持った龍、五頭龍が住んでいたそうです。 その龍は、乱暴者で山は崩す、疫病は流行させる、 台風や洪水を引き起こすとまさにやりたい放題だったのです。 周りの村は荒れ果ててしまい、 子供を生贄に差し出すようになってしまったとか。 そのためにこの辺りは子死越(現在の腰越)と呼ばれる様になってしまったとか。 552年(欽明天皇13年)に天地震動して天女が現れ、 海面に突如として島が現れました。 五頭龍は天女に心を寄せるようになります。 しかし天女にそれまでの悪行を戒められ振られてしまいました。 五頭龍はそれまでの行いを深く反省し、その後人々の守護として活躍しました。 恋は成就し五頭龍大神として祀られたそうです。 その後天寿を迎えた五頭龍は、 龍口山に姿を変え、今でも人々の暮らしを見守っているということです。 五頭龍大神を祀った瀧口明神社は、 江の島神社と同じ552年(欽明天皇13年)に建立されたと伝えられます。 天女は弁財天様の化身であって、両神社は夫婦神社とも云われています。 このお話に基づき、江の島には多くの龍神様の像があるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.04.01 09:49:57
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