<035>よりつづく
2、総表現時代の三層構造 p145
やっぱ、三層に分けてきたか。
メディアの権威はブログをなぜ嫌悪するのか P145
文章、写真、語り、音楽、絵画、映像・・・・。私たち一人ひとりにとっての表現行為の可能性はこんな順序で広がっていく。それが総表現社会である。ブログとは、そんな社会への序章を示すものである。 p145
インターネット上における、技術の難易度と、そのテクノロジーの普及から言えば、そういう序列があるかもしれないが、この通りの順序にはならないだろうし、それではおかしい、という気分がする。かつては、ミニコミなどのガリ版ジャーナリズムもあったし、ギター一本のプロテストソングもあった。アングラ芝居のムーブメントもあった。かつてのカウンター・カルチャーの流れも、十分組み入れた形で、これからの未来社会における「表現」について語ってもらいたいものだ。
個人的に言えば、私は「音楽」をカットしてきたところがある。別に音痴な訳でもないし、唄が嫌いなわけでもない。しかし、ビンボーだった私には、ギターも買えなかったし、結局LPレコードをまわすステレオ・オーディオも買えなかった時代が長くあった。今でも「音楽」には手を出さないでいる。それにハマれば、よけいな出費がかさむことが目に見えているからだ。
しかし、今後は、きっと「チープ革命」とやらで、どんどん簡単に音楽を取り込めるし、また表現もできるようになるだろう。もし、そうなったら、きっと僕はチャレンジするだろう。写真においても、フォト・ジャーナリズムのようなものには以前から関心があるし、まだまだ楽しんでいくだろう。多分、この「ウェブ進化論」についての私的検証が終わったあとは、個人的には、ブログ・ジャーナリズムの「ジャーナリズム」という視点がメインテーマになるような感じがする。いずれにせよ、著者が言うところの論旨には、いちいち関心があるのであるが、どこか、自分と視点が違っているので、いちいちつき合わせだけはしておく。
たとえば、「ブログとは「世の中で起きている事象に目をこらし、耳を澄ませ、意味づけて伝える」というジャーナリズムの本質的機能を実現する仕組みが、すべての人々に開放されたもの」に他ならないではないかと自問するとき、新聞記者たちの内心は穏やかではいられない。そういう真理は自然なものだ。 p147
少年時代に新聞記者になろうという夢を持っていた初老の男にとって、ブログとはジャーナリズムの本質的機能を実現する仕組みが、すべての人々に開放されたもの、とまで挑発されれば、受けて立とうではないか、と、逆の意味で内心穏やかではいられない。自由は自由としてあるのではなく、それを行使しなくては自由はあり得ない。
総表現時代の1000万人 p148
つまり、国民1億、プロ表現者1万人の間に、1000万人のブログ人口を想定したわけね。mixi登録者300万人といわれている時代だから、まぁ、あたらずとも遠からずの想定だろうが、実際は、本当の書き手は、せいぜい10万人程度だと、私は思う。
小泉圧勝を解散時に誰が予想できたか p150
ブログを読み解くことで小泉圧勝を予測できたと著者はいうが、その予測を立てる方法は、けっしてブログばかりではない。またブログに関わっていた人が、誰もがそう予測したわけでもない。それは、「読み」の一つであって、ブログの優位性、ブログの存在意味を強調するものではない。
リアル世界でミクロに「大衆層」に影響を及ぼす。そんな連鎖が起きた最初の事例として小泉圧勝を読み取ることもできるのではないだろうか。 p152
ここは、限りなく????????で放置しておく。著者のアルゴリズム、ドラマツルギー、の練習台であったとしても、まぁ、そんなお人よし、おっちょこちょいの「表現」にいちいち反応していては、こちらの身がもたない。
ブログは、単に予測記事を書くための材料にすぎないのか。日本国民として、小泉を支持するのかしないのか、著者の態度には、ホトホト愛想がつきる。
すくなくとも、小泉を支持するブログが多かったから、私も小泉を支持する、なんてヤワな視点を私は持っていない。
<037>へつづく