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カテゴリ:ブログ・ジャーナリズム
「実践的新聞ジャーナリズム入門」 猪股 征一著 2006/01 岩波書店 197p ★★★★☆ 最近は乱読ぎみだが、このまま行こう。少「子 」化ではなくて、小「紙」化だ。これは私のネーミングだが、紙とは新聞紙、あるいは紙のジャーナリズムのことだ。日本の新聞発行部数は5256万部で、総発行部数は1997年をピークにして、その後は年々減少しているという。 一世帯あたりの普及率は以前、1.20紙以上あったのに、05年10月で、1.04紙だという。 う~~む、そうだろうなぁ、と納得できる。実際、私はかつて、全国紙と地方紙(夕刊含む)を自宅で読み、職場では経済新聞を二紙読んでいたことがある。(一時期はこれに義理でとらされた宗教紙が一紙追加になったことさえある)。しかし、それはほんとの瞬間風速のピーク時でのことであって、それからは次第に小「紙」化した。 まず、経済紙を一紙にし、家庭では、全国紙をやめた。それから、地方紙も、夕刊を止めてもらった。現在は地方紙朝刊のみで、経済紙は図書館や公共施設で読んでいる。しかし・・・・ その朝刊も最近はやめようかな、と思っている。他の家族の意向もあり、そう簡単にはいかないが、しかし、すでに新聞をよまなくなって数年経っている友人やお客さんたちも少なくない。 なぜなのか。ひとつには、経済的な負担がある。新聞は月に4000円内外かかる。この長期不況の中で、一般の市民は切り詰めるだけ切り詰めている。複数紙カットは当然のこととして、テレビ番組や株式市場、天気予報、主な全国ニュース、地域の三面記事などを確認するだけなら、もはや新聞は切り詰め対象の筆頭にあがりつつあるのだ。 その大きな原因は、やっぱりインターネットである。通信経費のカットやオープンソース化を取り入れた「チープ革命」に挑戦しているのは各人同じだとしても、インターネットを導入してから、その後にそれを廃止しようとする人はまずいない。 それだけ私達の生活にインターネットは完全に普及し根付いたと言ってもいいだろう。意味じくも新聞の総発行部数のピークは1997年である。情報化時代は、この年に見事に既存のマスコミからネット情報へとバトンタッチされた、と考えることが正しいだろう。 この時、一ユーザー、一読者、一市民、としてやっておくべき作業は大きく分けて二つあるだろう。1)あたらしいメディアであるインターネットへの積極的関与とその功罪の点検。2)成熟期を迎え衰退期に入ったメディアの再評価と点検。 1)のインターネットやネット社会における民主主義などの点検は、このブログの重要テーマでもあり、また、いたるところでその作業は開始されているので、今日の日記の主テーマではない。 今日、確認しておくべきことは、2)の既存のマスコミとしての新聞メディアをどう評価しておくか、ということであろう。 その意味において、この「実践的新聞ジャーナリズム入門」は好著だと思う。著者は1944年生まれ。「中学時代に友人と二人で謄写版4ページのクラス新聞を作ったし、高校では部員数人で4ページのタブロイド新聞を年8回発行した。新聞部と学生寮では回覧する手書き新聞に加わった。」(p102)その後、1968年に信濃毎日新聞に入社。新聞記者として長年働き、編集局報道部長、取締役、を経て、現在は常務取締役を務めている、れっきとした現役の新聞人である。 この本は、「入門」と書いてあるが、勿論、これから新聞ジャーナリズムに入ろうとする若者に対するメッセージでもあろうが、大きくは、著者自身の新聞人としての振り返りであり、他のメディアから押されて衰退期にある新聞メディアに対しての渾身の応援メッセージだ、と読むことができる。 著者は、かつて「社会の木鐸(ぼくたく)」と言われた新聞は、強い社会的使命感に支えられていた(p31)という。しかしながら、「今は新聞社を志望する一方で金融業を受け、国家公務員試験受験も考える大学生にあうこともまれではない。ジャーナリストをめざすのではなくエリートを目指して入社する若者もでてきている」p116と憂いを見せる。 松本サリン事件の誤報問題、ハンセン病の患者への配慮、スパイクタイヤ追放問題への新聞のおこなったキャンペーン、水俣病報道、住基ネットのセキュリティ問題への関わり、長野県職員「名刺折り曲げ事件」、白骨温泉入浴剤事件、あるいは旧石器遺跡偽造事件、サンゴ礁にカメラマンが傷をつけた「やらせ」問題などなど、多くの実際的な事件や報道を振り返り、内部告発ともいうべき自己啓発をやってみせる。 後日、私は私なりに振り返ることになるだろうが、私もまた、小学校3年生の時の壁新聞時代から新聞部をやってきた人間で、謄写版、タブロイド版学校新聞、肉筆紙、などを体験した。自分も新聞人になるのかと思っていた時期さえある。しかし、16歳の時にであった事件が私の人生を変えた。 学園闘争時代に、わが校であった事件を新聞部として取材した私の目にうつったものは、5大紙の紙面で報道された「誤報」だった。状況の表現はともかくとして、時間や数字の表記も各紙まちまちで、「ペンは剣より強し」といったマスコミへの漠たる信頼は一挙に崩れた。報道される側にとって見れば、その誤りの罪悪性はきわめて重いといわざるを得ない。 スクープと誤報のハザマで働くマスコミ人の苦労もいまとなってみれば分からないでもないが、「真実」を探求しようとする少年に、誤報問題はあまりに大きな障害となって立ちふさがった。この時、私は、ジャーナリズムは「真実」に到達し得ない、と思った。「真実」はどこにあるのか、私なりの探求が始まったといえるかも知れない。 もちろん「真実」の探求が簡単であるわけがない。ほとんどの試みは失敗する。この「実践的新聞ジャーナリズム入門」から学ぶことは大きい。いまさらながら、このような「常識人」がおられることを喜びと思う。しかしながら、最近では、例のライブドア事件関連で、偽メール問題で日本の政治が揺れたように、実に「真実」とはあやうくはかないものになってしまっている気がする。 あるいは百歩下がって、新聞の復興を期待するとしても、「第4の権力として社会的な影響力を高め」116pた新聞が、人間の人生の最後のテーマになるとは、最近の私には思えない。ジャーナリズムはジャーナリズムとして健全に発達していくことを期待しつつ、最近言われているブログ・ジャーナリズムなどの動向にいっそうの関心は移っていくだろう。 また社会の木鐸論はともかくとして、「民主主義」そのものが問われている時代に、「民主主義」さえ支えていればよい結果が生まれるだろうというオプティミズムに、簡単に組することはできない。1)自分自身を表現できる。2)いろいろな人と知り合える。3)たくさんの現場を踏むことができる。4)素晴らしい同僚と仕事が出来る。といった「新聞記者の楽しさ」p143を列挙されると、いいなぁ、とうらまやしくはなるが、やはり、著者は、時代からしだいに引退していく人間なのだと思わざるを得ない。 ふと図書館の新着新刊コーナーにおいてあって、何気に借りてきてしまった本であったが、きわめて熱くなって読んでしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.29 14:13:26
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