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カテゴリ:地球人スピリット
「ナルニア国の住人たち」 「かつては子供だった、あなたと私へ。そして、まだ見ぬ、未来の子供達へ。」という副タイトルで、このブログを書き進めてみようと思っている。あなたと私にとっての子供時代はすでに過去かも知れないが、それは確実にそこに存在していたはずのなにかである。 では「まだ見ぬ、未来の子供たち」というものが存在する確率はどのくらいあるのだろう。当然、人口は増え続けていく。子供は生まれ続けるだろう。しかし、ブログの読者として「未来の子供達」を想定するとき、そこには大いなる冒険がある。そこにいない人、いないのに、さもいるかのように想定して、語りかける、ということである。 ネイティブ・アメリカン達は、重要な取り決めを決定するときには、7代先の子孫達のことを考えながら議論するという。3代先くらいまではなんとかお目にかかる可能性はあるかも知れないが、7代先の子孫に出会うことができた人というのは、過去にはいないだろう。また、未来に渡って、そのような恵まれた人物は存在できないに違いない。 では、まだ未来の子供たち、とか、7代先の子孫とはどういうことをいうのだろうか。それは、おとなになってしまった人間にはわからなくなってしまった世界や感じ方がきっと存在していて、それは、大人の価値感を超えた、もっと本質的で、無限の可能性があるよ、といっているかのようだ。 この「ナルニア国の住人たち」の出版社のホームページを見ると、小学3.4年生以上、となっている。ナルニア国物語は児童文学であろうし、また、その関連である本書もまた、そのような子供たちを対象に書かれている本なのであろう。そこに登場する住人達は、成長してしまった通常の大人達には見えない不思議な形や存在として語られている。 ある意味、日本でいうところの水木しげる描くところの世界観にもさも似ている。また、私はあまり宮沢賢治については知らないが、たしか「風の又三郎」などは、10歳の少年として書かれていたのではなかっただろうか。子供と言えども、生まれたばかりの乳幼児から、青年期を迎えるまでに、たくさんのプロセスを経ていく。 自分なりに自分の子供時代を振り返ってみたり、二人の子供、女子と男子を育ててみて、確かに、10歳、という年齢には、一つの大きな区切りを感じる。不思議な年頃だ。この年代から、子供たちは、やがて大人になっていく。 私が、もしこのブログの仮想読者を想定するなら、14歳だ。しかも少年、となるだろう。10歳の子供たちには、一人で旅に出る、という可能性はない。どこかに隠れんぼしたときに、不思議な世界を夢想する、という手段などしかない。しかし、14歳の少年には、旅にでる、という可能性がでてくる。まだ旅にでることはできないにしても、旅の準備を始める年代だろう。 なぜ少年なんだろうか。例えば、ジブリ作品で私がすきなものの一つは「魔女の宅急便」だが、そこに書かれているのは少女だ。でも、旅にでたり探求する、という意味では、とても少年的に思える。すくなくとも「魔女の宅急便」の主人公は、とても中性的に描かれている。 私には14歳の少女、という時、すでに母性という本来女性に備わった、少年性とはなにか違ったものが成長し始めているように感じられる。母性とはすでに完成した何か、を象徴しているような感じがする。背中におんぶされている女子が、さらにお人形さんをおんぶしていたりする姿を見ると、私のような男性には、いつまで経っても「母性」というものは理解できないもののように思える。 いずれにせよ、ナルニア国物語をベースにして、ゲド戦記や指輪物語、ハリーポッター・シリーズなどなどを読み薦めてみようと思っている今、私には、少年、と、旅、というシンボリズムは、どうしても欠かせないもののように思える。そして、その時、なぜ少年なのか、なぜ旅なのか、ということについての疑問は、ナルニア国物語を読み進めていくと、わかってくるような予感がしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.30 08:41:12
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