地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「9.11(ナイン・イレヴン)ジェネレーション」 米国留学中の女子高生が学んだ「戦争」
岡崎玲子
図書館から借りてくる本に、いわゆる腰巻がついていることはない。だからこのタイトルだけが目立っていた。もし、この若い女性が自らをそのように呼んだとするなら、ちょっと眉唾な本だなぁ、と最初は思っていた。しかし、この本を読み始めて、この本の成立ちを知るに至って、まさに驚愕に値する本であると、感激した。
この名前は、彼女が留学していた米国チョート校を講演で訪れた元国連大使ビル・リチャードソンが会食の席で話した言葉だ。彼女もまた、この名付けに逡巡する思いを持ちながらも、次第にその視点を自らの視点としてひきよせ、9.11を米国にいながら、その空気を肌で感じながら、当時のひとつひとつを記録する。まさに優れたジャーナリストの振舞いだ。戦争というものを的確にジャーナリストの眼でとらえている。
1985年生まれだというから、ウチの子と、しかも下の子と同学年だ。私にとってはまさに子供世代だ。この本が書かれたのも彼女が19才の時だという。この本を読みながら、何度も何度もそのことが気になった。読めば読む程、正しい。まさに言わんとしていることがその通りだ。このような存在がすでにこの世にいるなら、なにもおっとり刀で私がブログなどと言い出す必要はない。ある意味驚きながら、ある意味安心しながら、この本を読んだ。
しかしである。彼女にも死角があるはずだ、とアラ探しがはじまった。感心してばかりでは、こちらの立つ瀬というものがないではないか。変ないい方だが、私には私の存在価値があるはずだ、彼女と自分はなにが違うのか、と、嫉妬と羨望の混じった眼で、彼女を見始めた。
イメージとして言えば、今の彼女は、ショーウィンドウに飾られた切れ味のいいナイフのようなものだ。ナイフでイメージが悪ければなにかの道具としてもいい。ピカピカ光っている。完璧だ。切れ味抜群、こちらが期待したとおりの仕事をしてくれる。曖昧さがない。新品そのものだ。
しかしである。道具というものは、職人の手によって完璧に作られても、それは、まだ半分の道程でしかない。それが、さらに別な人に渡って使い込まれて、どこかが欠けたり、剥がれたり、一度や二度は修理されながら、さらに仕事を重ねながら、道具として、さらに磨かれていくのではないだろうか。
言ってみれば、彼女の存在があまりに若くて輝いていることからの、当然の帰結として、そのような生活感や歴史感がない。なくて当り前なのであり、ないことは何も彼女の欠点でもなく、批判の根拠になるものではない。しかし、敢えて彼女の前で、自分の存在を自分なりに感じるとすれば、そういうことを考えながら、私はなんとか自分であることを続けようとした、というだけである。
このブログの三つのカテゴリにおいて、そのひとつにブログ・ジャーナリズムというものがあるが、この分野においては、この本は完璧だろうと思う。もし、いつの日か、このようなものを書くことができたら、私はこのカテゴリで目的を達成した、ということになるだろう。自らが書けなくても、このような本に出合った、というだけで、すでにその目的のかなりの部分を達成した、ということになるだろう。
しかしである。他の二つのカテゴリ、「ネット社会と未来」「地球人スピリット」というところになると、この本の中には、ややそのひろがりの限界を感じる。それはこの本の欠陥という意味ではなく、私がどのようなほうに行きたいのか、という自らの気づきだ。
「ネット社会と未来」という時、そこには、彼女のようなエリート、ジャンヌダルクのような革命的な指導者、途方もないインテリジェンス、等々の存在を必要としつつ、また逆の意味において、普通のひとびと、自らなんの取り柄もないと思っていて、なおかつ、周囲からもそう思われがちな人々も必要とされるのである。いや、ある意味においては、もっともっと、他人の手をわずらわさないと自ら自立できない存在、そのような存在達をも包括し得る世界観が必要とされるのである。
いや、あまり上手ないい方ではなかった。皆んな必要なのである。左ききの人も右ききの人も、痩せた人も、太った人も、絵の上手な人も、声のきれいな人も必要なのだ。彼女がそのような寛容さを持ち合わせていない、というのではない。彼女の視点は、完璧だ。しかし、彼女がそのような強さを持ち合わせていればいるほど、それが、弱さとなる、という逆現象があるということ。うまく説明できないが、そのことをとりあえずメモしておきたい。エリートの知性じゃなくて、普通の人の感性、ということを言いたいのかも知れない。
「地球人スピリット」という時、まさに、彼女の視点は正しい。彼女にこそ私は学びたいと思う。しかし、しかし、もっともっと何の論理性もなく正統性もなく矛盾にみちて、間違いだらけで「地球人スピリット」などという言葉に対してさえ唾棄するような、そういう人こそ持ち合わせている「地球人スピリット」というものもある。あるいは、私が欲しがっているものは、どうもそういうものを含んでいる。
ジャーナリストしての彼女があまりに素晴らしいので、あえて難癖をつけるようなことをしている自分が恥ずかしい。しかし、また、このような敢えてチャンピオンに喰らいつくようなチャレンジャー精神もないと、コラボレーションというものも楽しいものにはなるまい。私はくだらないもの批判するためにこのブログを書いているわけではない。素晴らしいものと、より素晴らしい関係を持ちたい、そう思っている。
いつまでもひとりでモノローグをやりたいと思っているわけではない。今は、自分で何を考えているの、私は、どんな感性なのと、確認中だが、本来は、ダイアローグの中で、新しい価値をつくり出していきたいと願っているのだ。まずはとりあえず、そのような方向性に向かって歩いているつもりでいる。