地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「ネットワーク社会の深層構造」 「薄口」の人間関係へ 江下雅之
この本もまた、素晴らしい本であり、よくまとまっている。出会い方さえ正しかったら、個人的にも社会的にもきわめて大きなインパクトを与えることのできた好著と言えるだろう。ただし、惜しむらくは、この本、2000年1月にでた本だ。すでに6年以上の時間が経過している。前々首相の森嘉朗氏が「アイテー革命」と言っていた時代だ。いや最初は「イット革命」と言ったとか。
その時代なら、この本は圧倒的に抜きん出て素晴らしいバランス感覚を見せていたと思う。「Web1.0」時代の教科書と言ってもいいだろう。今読んでもなんの破綻もしていない論理性がある。仮に今を盛りの梅田望夫氏の「ウェブ進化論」を6年後に読んだとしても、これほどまでに感動しないかもしれない。
ただ、すでにこの本が出版されてから6年の年月が過ぎ、ガンジス川の水は無量大に流れ去ってしまった。この本に書かれた社会は、すでに現実化し、変貌し、ある意味では破綻し、ほとんどすべてが検証されつくしたと言ってもいいかも知れない。
私は最近、ネットワークという言葉を使うことを止めようかと思っている。ネットワークにしてもウェブという言葉にしても、どうしても平面的、あるいは単面的なイメージが強すぎるのである。私も積極的にそのネットワーク社会とやらに参加してきて思うことは、現出しているネット社会は決して平面ではないということだ。
私が現在の社会を名付けるとしたら、「ジャングルワーク社会の重層構造」ということになるだろう。少なくともこちらのほうが、より立体感がある。
まず、双方向性と言われたネットワーキングだが、私の感覚では、双方向性は確かに認められるが、そのバランスはイコールではない。極端にバランスが崩れている場合があるばかりでなく、おうおうにして、一方的ですらありうる。ピラミッド社会においてさえも、トップダウンとボトムアップの方向性があるものだが、ネットワーク社会では、時に一方的な情報やエネルギーの流れに終止することもまれではない。
さらに、ネットワークに接続しているポイントは、何層にも構造化されており、例えば、地球上のA地点とB地点がすべてイコールでつながっているなんてのは、まったくの幻想だ、ということがわかり始めている。極めて弱肉強食的なジャングル的論理がまかり通っている。そしてまた食物連鎖もすでにおきている。
かつて戦後日本におきた新左翼運動は、新しい社会を生み出す新しい可能性をつくりはしたが、連合赤軍などを活動とその弾圧によって、良くも悪くも秩序化され、ひとつの社会的熱気というものは失われていった。
あるいは、80年代に醸成されてきた精神世界への芽も、オウム真理教というケダモノの登場と、それを退治しようとする流れによって、かつては無限大に見えた可能性は限りなく萎み、内向化するだけ内向化してしまい、ともすると、ひきこもりやニートなどと揶揄される文化として表現されるようになってしまっている。
この本で書かれたいわゆるWeb1.0の世界もある意味では、Hモンやギョロメ村上などの暴走により、荒されるだけ荒され、揶揄されるだけ揶揄されてしまった、と言える。今、WEB2.0というかけ声のもとに何らかの焼け跡処理が行われようとしているが、そこからは次第に無限の可能性というものが失われ、かつて大量の人々が発散していた熱気のようなものは次第に失われつつある。
アメーバの活動のように、ネットの双方向性は活動してやまないが、それでも、それがつながっていればよいというものではない。局所的には小さいないくつもつながりであろうが、それは巨視的に見た場合、一個の生物にでも例えられるような、新しいものの誕生を意味するものでなければならないと思う。
それは、真なるものであり、善でなくてはならないし、美しいものでなくてはならない。ネットワークであればよいという時代は終わった。そこから必然的に生まれてくるのが、何なのか。何でなくてはならないのか、そういうことを真剣に問う時代になっている。