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カテゴリ:ネットワーク社会と未来
「ネオ共産主義論」 的場昭弘 2006/04 光文社 新書 259p ★★★★★ いやはや、この本も相当面白い。タイトルも洒落ているから、最初から面白そうだと思ったが、期待に違わず、わくわくしながら読んでしまった。実際、そういわれて見れば、共産主義というものに対して、どれほどの理解を持っているだろうか。どこかタブー視しながら、すでに過去の残骸的な見方をしていたかもしれない。 どこかにコミューンという言葉への憧れがあり、その夢見る共同体のコミューンと、共産主義のコミュニズムがどこかで交差はしているはずだとは思っていた。しかしすでに崩壊したソビエト共産主義や、先日読んだ日本共産党の現状を見聞きするにつけ、すでに老朽化してしまった思想体系に活路はあるのだろうか、と少し憐れみさえ感じていたところだった。 ところがどうしてどうして、この本一冊で、私は共産主義が好きになってしまった。いやいや、たぶんこの著者の書き出した共産主義は必ずしも、旧来からの伝統的なとらえかたではなく、新しい視点からの体系であろう。その証拠に「ネオ」とついている。しかし、新しいからと言って、最近のことだけを言っているのではない。 著者は共産主義を「旧約聖書」から書き起こす。そして千年王国論やユートピア思想を経過したあとのマルクスと現代思想家たちを俯瞰する。 「旧約聖書」から始まる千年王国論が、未来に向かって幸福を追求し続けているにに対して、ユートピア思想は現実のどこかに幸福の場所を求めているということになります。両者は、時間軸と空間軸の区分において明確に違うわけで、共産主義思想は、この二つの相異なる思想を受け入れているわけです。p78 つまり、いずれやってくる救世主メシアによって千年王国が築かれるまで、苦難の世界を生きていこうとする前者と、ユートピア、つまり「ない」社会を、どこかに作ろうとする後者は、好対称を成しているというわけである。なるほど、「腑」に落ちる。 思えば、70年前後に現代アメリカ思想としてババ・ラムダスの「Be Here Now」いまここであるがまま、という言葉が大変流行したことがあった。この言葉があれほどもてはやされた理由はここにあったかも知れない。救世主がやってくる未来に幸福を求めるのでもなく、「もうひとつの別の世界」に夢を見るのではなく、今、ここで幸福に生きていこうじゃないか、という主張は、ある意味、大きく当時の共産主義を越えていたと言える。 マルクスやその後の現代思想家だけが共産主義者ではない、と本著は主張する。そして、大きな流れのなかでは、人間が幸福を求めている限り、まだまだ共産主義は姿を変えて再登場してくるだろうと未来を予測する。 さて21世紀に入って、ネット社会が急速に進展したことから、世界中の人間が相互にむすびつきやすくなりました。各地で国境を越えたネットワークが生まれ、利害関係にとらわれない人間どうしの連帯を作り出しています。もし新しい共産主義が考えられるとするなら、こうしたネットワークを抜きにして語ることはできないでしょう。p238 長い長い現代共産主義についてのレクチャーの後にでてくる言葉ではあるが、いやそのようにしてようやく出てくる言葉だからこそ、この言葉の意味は重い。 さて本著にもでてきたが、先日よりマルチチュードという言葉がちらちら見え隠れする。どこかマルチバーシティを連想してしまう私がいるが、マルチチュードとは「多数」「群集」を意味する言葉で、「多様な個性をもった集団」ということを意味するそうだ。「個々に相違なる個人が集合している」関係、あるいは社会を意味しており、スピノザあたりがその言葉の語源にいそうである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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