「ポスト・コンピュータの世界」 21世紀のパソコンはどうなる? アサヒパソコン・ブックス 奥野卓司・他 1995/11 朝日新聞社 単行本 246p
No.815★★★☆☆
「1992年メディアの旅」浜野保樹、「電子生物学序説」佐倉統、「イマジナ・エレクトロニカ」伊藤俊治、「透明という名の思想」巽孝之らとの共著。それぞれに興味深いが他の共著者の部分は割愛する。奥野の担当はトップで「情報人類学」で約50ページ強。雑誌「朝日パソコン」に連載された記事を再編集したもの。発行された1995年11月という時期の割りには麻原集団事件に触れた部分がないなぁ、とちょっと不満だったが、連載そのものが92/01~94/10の記事であり、95年のWin95に始まるインターネット時代に触れられることもない。
情報科学者の西垣通氏に、この話をした時、「イルカがコンピュータをつくれば人間のそれと全く異なった機械になるでしょう。生物は自分の身体を拡張した道具を作り出すから」という意味のことを言われた。この「機械=身体拡張論」はなかなか刺激的だが、イルカが仮に動物学者のいうほど知能の高い生き物であったとしても、コンピュータはもちろん、ヒトの道具と同じ文化範疇の道具をつくりうるか(また、つくろうとするか)疑わしい、とぼくは思っている。p14
この時の論争がどうなったのか、その雰囲気は友好的なものだったのか、険悪なものだったのかは分らない。本当のところはどうなのか分らないが、何冊か読んだ限りにおいて西垣通という人の本はいまいち私にはピンとこない。なんでなのかなぁ、と思ってふと奥野と比較してみた。奥野のこの本における文章はまず「呪術としてのコンピュータ」という章立てで始まる。なるほどと私は膝を叩いた。
この見出しは奥野なら書けるが、西垣には書けないのではないか。そういう視点でみてみれば、これから読もうとしている奥野の次著「人間・動物・機械」という本には「テクノ・アニミズム」という副題がついている。呪術とアニミズムはどのような関係にあるか分らないが、少なくとも機械やテクノという言葉なら、「情報学者」の西垣には使えるだろうが、呪術やアニミズムは扱うことはできないだろう。
いずれが正しいかはともかくとして、西垣においていまいちピンとこなくて、奥野にどこかピンとくる、その違いの原因はこの辺にあるのだろう。つまりテクノロジー一辺倒のコンピュータの世界より、もっと輻輳的で渾然とした中から立ち上がるコンピュータ論のほうに、私はより関心がありそうなのだ、と分った。奥野のさらなる次著はさらにエスカレートして「市民のための『遺伝子問題』入門」となっていることを考えると、より分りやすい。
20世紀にとっての最重要テクノロジーは、クルマだろうか、コンピュータだろうか。
たしかに飛行機やテレビも人々の生活を大きく変えたが、世界でクルマほど各家庭に所有され、生活様式を変容させた機械もないだろう。が、おそらくパソコンは、(その名前はマルチメディアに変わっていくとしても)近未来にはクルマ以上にぼくたちの生活を変革していくかもしれない。
言い換えれば、今世紀前半のテクノロジーの代表が自動車であり、後半の代表がコンピュータだったのだ。p29
そのとおりだろう。そして、21世紀前半のテクノロジーの代表はインターネットだったとしても、次なるトップランナーの姿が見え隠れしつつある。レイ・カーツワイルに言わせれば、「遺伝学(Genetics)、ナノテクノロジー(Nano-technology)、そしてロボット工学(Robitics)、この三つのテクノロジーが今後の革命の中心になる」ということになる。
「インド人がつくるコンピュータとは」などという章立てがいかにも奥野らしい、真面目=不真面目なタイトルのつけかただ。でも論旨は真摯だ。
欧米で学位を取っているインド人のコンピュータ科学者は非常に多いけれども、インド国内ではコンピュータ文化は拡大しないのではなかろうか。だから、彼らは、コンピュータよりもアーユルベーダの方を尊重する母国には帰りたがらないのだ。ただひょっとして、ヒンズー今日の宇宙感に基づくコンピュータなんてのがインドで生まれたら、インドの人々はそちらを大いに使うだろう。そして、われわれの世界のパソコンに様々なプラシーボ効果としての呪力があるように、そのコンピューベーダとでもいうべき電子装置の呪術のパワーが、インドではまた絶大なのかもしれない。p49
インターネットもケータイ文化の爛熟もありえなかった時代の未来予測である。いまやインドの街角に修行するサドゥ達でさえケータイを使用しているのだ。いまやIT大国と言われるインドの今日の興隆はなかなか予測がつくものではなかった。
しかし、いみじくもこの本のタイトルは「ポスト・コンピュータ」を歌っているが、現在のネット社会のあり方が最終最高形態でないことは衆目の一致するところだ。もし奥野がいうように、インドから「コンピューベーダとでもいうべき電子装置の呪術のパワー」が湧き上がってくるとしたら、それは大変面白いことになるのではないだろうか。少なくとも個人的には私はぜひ見てみたい。
ヒトの後を継ぐのが、生物である必然性はあるのだろうか。ヒトがつくった「道具」のひとつが、その呪術の果てに、ヒトの進化を受け継いでも、もはや不思議ではない。この小文で繰り返し述べてきたのは、ヒトがこれまでにつくり出した、あらゆる道具や機械は、ヒトの身体の一部の代行もしくは拡張という形を機能上はとりながら、除々に進化の意味を代替してきているということではなかったろうか。とすれば、そのデータベースの最終ページに記録されたコンピュータという道具自身が、すでに進化を司っている「モノリス」に触っているのかも知れない。ボーマン船長がHALの記憶装置を引き抜く前に、もはや人類はその生命のバトンを、彼女の手渡してしまったのだ。サイバーは呪術師=MEDIAの笑い声が、静かに、だがしだいにはっきりと聞こえてくる。p61
なんとも皮肉にみちた、暗鬱とさせるような予言ではある。SFではあるが、いくつかの予想図が提供されている。映画「マトリックス」などは、私は気を失ってしまって(飲みすぎが原因だが)最後までよく見ることができない。だがしかし、このような次なる次代は確実に押し寄せて来ているのである。